最近読んだ論文

 

220. 過剰な降雨が誘発したハワイ島の火山活動

"Extreme rainfall triggered the 2018 rift eruption at Kilauea Volcano"
J. I. Farquharson and F. Amelung, Nature, 580, 491-495 (2020).

ハワイ島のキラウェア火山が2018年5月に非常に大きな活動を見せたことは記憶に新しい.この時の噴火はここ200年でも有数の規模の活動であり,例えば住宅地でも亀裂が生じ溶岩が噴き出すなど,最近の火山活動とはやや異なる挙動がいくつか見受けられた.特に火山学者らが注目したのは,噴火前に山体膨張が見られなかった点である.通常,大規模な火山活動は,深部からマグマが上昇し火山のマグマだまりに供給されることによって生じる.ところが2018年の大規模噴火では,非常に大きな噴火でありながら事前の山体膨張はほとんど確認されていない.これは噴火の原因が,地下深くからマグマが供給されたわけではないことを示唆している.
では,この噴火の原因は何だったのだろうか?今回著者らは,同時に起きていた異常降雨がその原因ではないかと指摘している.
もともと,火山と降雨の間に関係があることはよく知られている.例えば火口の溶岩ドームが降雨で崩壊することもあるし,浅部地下水がマグマにより加熱され高圧の水蒸気を生じ,それが水蒸気爆発を生じるなどもよくある話である.しかしながら2018年のハワイの噴火では,マグマはもっと深い位置に存在しており,このような深いマグマと降雨との関係は明らかになっていない.

著者らが立てた作業仮説は以下のようなものである.大規模な降雨が陸地にしみこむと,地下深部での圧力が増加する.するとその圧力を受けたマグマだまりの圧も増すため,地殻の弱い部分が突き破られる可能性が増大する,というものである.要するに,カレーパンなりあんパンなりの上から重りをのせれば弱い部分が割れて中身が漏れだす,というようなものだ.
何故著者らがこういった仮説を立てたのかといえば,

・前述の通り,マグマの移動などは事前に確認されていない.それ以外の何らかの原因でどこかが「破れた」と考えられる.
・この年は非常に降雨が多く,2018年の1-3月期の降水量は2.25 mと,例年の2.5倍にも達する.これは統計的に2σを超えるような大きなズレである.
※ハワイ島の北西にあるカウアイ島では,24時間雨量が1.26 mにも達している.

という2点にある.異常な事態が2つ同時に起きていたので,何か関連があるのではないか,というのがとっかかりというわけだ.
そこで著者らは,降雨によりどの程度地下の圧力が増大するのかを,大雑把なモデルで計算した.メインのモデルは,上部(浅部)に水の透過率の高い地表が500 mあり,その下10 kmまでは透過性の低い地層が広がる,というもので,水平方向には均一(つまり,1次元方向のみ考えればよい)というモデルになる.一応他にも3つぐらいのモデルで計算しているようだが,そちらまでは読んでいないので割愛.
そんな単純化したモデルで著者らが計算してみたところ,ハワイ島における異常な降雨の結果,地下でも最大で数十 kPaていどの圧力の増加が生じても良い,という結果を得た.地表近くの急激に圧力が変化する部分を除いても,例えば地下1 kmで1 kPa程度,地下3 kmで0.1 kPa程度の圧力増加はあっても良い,ということになる.この地下3 kmというのは,横方向でのマグマの移動が最も起こっている領域,だそうだが詳しいことは不明.多分,ハワイ島での噴火によく関係する深さ,という感じなのだろう.
0.1 kPaというと,大気圧の変動と比べるとかなり小さいような気もするが,地下数 kmともなると,地上での気圧変化は途中の地殻中での摩擦などで相殺されてしまい,なかなかここまでの圧力はかからない……のだろうか?この辺りは分野外で感覚が無いのでよくわからないが……
過去の研究からは,大雑把にいって10 kPa程度マグマの圧力が変化すると,マグマがどこかを破って噴出する可能性が非常に高いらしい.それと比べると0.1〜1 kPaというのは小さいが,もともとハワイ島は非常に噴火しやすい場所であり,あちこちがギリギリ噴火しない程度で保たれていることを考えると,この程度の地下圧力の増大が噴火に繋がるのもおかしくはない,そうだ.
なお著者らは過去の噴火のデータと気象データの相関も調べており,1975年以降の大きな噴火33のうち,20は(降水量から推定した)地下圧力が顕著に増大していた(と考えられる)時期と重なっており,ハワイ島における噴火には降雨がこれまで考えられていた以上に影響しているのではないか,と述べている.

そんなわけで「もしかしたら雨と噴火に関係あるかも?」という論文だった.
ちょっと微妙なところなんで,個人的には「そういう可能性もあるだろうけど,もうちょっと追加の研究待ちかなあ……」という感じ.
Extended Dataとしていくつかの統計的なグラフが載っているが,降雨の多い時期と噴火時期に何の相関もなく単なる偶然だとすると,そういった偶然が起こる可能性は2σぐらいに位置するらしい.まあ,相関はありそうな気がしなくもないが,偶然でもギリギリ文句言えないかなあというところ.(2020.5.26)

 

219. マルハナバチは葉を噛むことで開花を促進する

"Bumble bees damage plant leaves and accelerate flower production when pollen is scarce"
F. G. Pashalidou, H. Lambert, T. Peybernes, M. C. Mescher, C. M. D Moraes, Science, 368, 881-884 (2020).

自然界では,さまざまな蜂が受粉を媒介し,生態系の維持に大きな役割を果たしている.植物は受粉を助けてもらう代わりに蜂に食物を提供し,蜂はその食物を利用し増殖する.そんなわけなので,蜂が一番食物を必要とする繁殖期,これは分蜂やら新たな群れを作ったりやらがある春になるのだが,と多くの植物の開花時期とが一致している方が何かと都合が良い.
さて,大まかには時期が一致している繁殖期と開花時期なのだが,当然ながら両方とも気候の影響などを受けるため,年によってはズレが生じる可能性がある.特に近年の気候変動なども考えると,このズレが非常に大きくなることもあるだろう.そうなると,蜂は餌が足りなくなり十分増えることができず,まわりまわって植物の受粉もうまくいかなくなる可能性があるわけだ.
こういった共生関係にある場合,両者のタイミングを一致させるためのメカニズムが別に存在する可能性がある.果たして,蜂と花の場合はどうだろうか?

今回の論文の研究は,著者らが春にマルハナバチを観察していて,「働きバチが葉の内側(エッジではない部分)に切れ込みを入れている」という行動を見つけたところからスタートした.観察の結果,蜂は葉を切り取って持っていくわけでも食べるわけでもなく,単にV字の切れ込みを作っているだけだと判明した.
植物関係の常識として,各種のストレスが花芽の生成を促すことが知られている.要するに,環境の良い間はできるだけ大きく成長しておいて,気温が下がったり害虫が出てきたりしたら早めに種を作って生き延びる,という進化なわけだ.とすると,蜂は食物が必要となる春先に,植物の開花を促すために葉に傷をつけている可能性がある.真実は実験で確かめるしかない.

著者らはまずコントロールされた条件下で実験を行った.蜂としてはそもそもの切れ込みを入れる行動が観察された,地元チューリッヒでもよく見るセイヨウオオマルハナバチを用い,これを外界から区切った領域で,決められた植物のみが存在する状況に置く.置いた植物はトマトとクロガラシ(アブラナ科の草)である.まずはこれらの植物で「マルハナバチと共存させ,葉に切れ込みが入ったもの」,「人が人為的に似たような切れ込みを入れたもの」,「切れ込みの無いもの」の3つの群を作り,同じ条件下で開花までの日数を測定した.用いた株数はトマトが各群20株(花の数は総計4800),クロガラシが各群10株(花の数は1200)である. Supplementary MaterialsのFig. S1を見ていただくとわかりやすいが,何も傷つけていない株の開花割合(緑)に対し,人為的に傷つけたもの(青)ではやや早く開花し(トマトは平均5日,クロガラシは平均8日,傷つけないものより早い),蜂が切れ込みを入れた株(黄色)はさらに早く開花している(トマトは平均30日,クロガラシは平均16日,傷つけないものより早い).クロガラシの方はちょっとばらつきが大きいので微妙なところもあるが,トマトの方は歴然たる差が表れている.要するに,蜂が噛むと花が早く咲く,というわけだ.

餌とのかかわりを考えると,食物が少ない時ほど蜂が葉を噛んで早く花を咲かせようとするのが自然である.そこで著者らは今度はマルハナバチを2群に分け,片方には十分な花粉を餌として与え,もう一方には花粉が不足する状況に保つ.そしてそれぞれの群が,近場に置いたクロガラシの葉に対しどの程度葉を傷つけるのかを観察した.この時,群れの個体差があるといけないので,最初の1週間はAのグループに多く花粉を与え,後半の1週間は逆にAの方が少なく与えられた.
結果は歴然としたものだった.前半1週間では,花粉を十分与えられているA群は葉をほとんど傷つけなかったのに対し,B群の近くにおいたクロガラシの40%ほどが葉に損傷を受けていたのだ.後半の1週間ではこの傾向がきれいに逆転し,花粉を十分与えられたB群の近くのクロガラシは10%前後しか傷つけられなかったのに対し,花粉が減ったA群の近くのクロガラシは40%ほどが損傷していた.
つまり,花粉が十分手に入る=周りに十分な花が咲いている状況ではマルハナバチは単に花粉を集めるが,エサが少ない時期には葉を傷つけ,少しでも早く花粉が手に入るようにしていたわけだ.

しかしこれらの結果は,あくまでも制御された環境下での話である.そこで2018年には著者らは,屋外での実験を行った.
屋上庭園にマルハナバチの巣を設置し,すぐ近くに(花の咲いていない)植物を置いておく.そして周辺地域での花の咲きぐあいの変化に対し,巣の近くに設置した植物の葉がどの程度切られるか,を観察した.
すると予想通り,周辺に花が咲き始めるまでは多くの葉が切られたのに対し,周辺で花が咲き始めると葉への傷害行動は急速に減少していった.さらに,途中で巣の近くに花が咲いた植物の鉢(かなにか)を追加すると,それ以降の葉への傷害行動は一気に減少している.実験室系での結果から予想される通り,自然界でも,エサが少なければ葉を傷つけ,エサが豊富ならそういうことはしない,というマルハナバチの生態が確認できた.
なお著者らは,この観察の間に自然界の別種の蜂たち(といってもマルハナバチの仲間だが)も観察場所に現れ,葉に似たような傷をつけていることを報告している.つまり,葉を傷つけて開花を促進するのは養殖されているセイヨウオオマルハナバチだけではなく,自然界の類似の種も行っている,ということが言える.
なお著者らはさらに翌年の2019年にも実験を行い,今度は数百メートル離れた2か所に巣を設置し,片方は巣の近くに花を配置,もう一方はそのまま,として比較したり,設置した花を途中で根こそぎ刈ったりして,マルハナバチの行動を確認しているが,結果はまあ予想通りのものだったので詳細は省略する.

ということで,蜂は意外にも自分の方から能動的に働きかけ,開花時期に影響を与えているらしいよ,という研究であった.(2020.5.22)

 

218. 豊かな温帯雨林に覆われていたかつての南極大陸

"Temperate rainforests near the South Pole during peak Cretaceous warmth"
J. P. Klages et al., Nature, 580, 81-86 (2020).
※ものすごく久しぶりにここに書いた気が.論文は読んではいるんですが,なかなかまとめる時間が取れない……

「過去に何があったのか?」に思いをはせるのは人類の知的好奇心の代表的な表れである.これまでにも過去を知るための数多くの努力が費やされ,数々の奇想天外な生物の存在や,全球凍結などのかつては予想もされていなかったような気候の劇的な変動の様子などが次々明らかとなっている.特に過去の気象を知ることは,その時代の生物がどのようにして繁栄したのかを知るための重要な知見になるとともに,我々の世界の気候の行方を推測するための基礎データとしても重要となってきている.

さてそんな地球の気候であるが,研究が進むごとに我々が以前考えていたよりもはるかにダイナミックに変化していることがわかってきている.今回の論文が注目しているのは後期白亜紀の極地における気候なのだが,この時期は火山活動が大幅に活性化し,海洋底が大きく拡大していたこと,火山活動の増大に伴い二酸化炭素濃度が大きく上昇し現在の3倍(1200 ppm)を超えるような状況になっていたこと,それに伴い世界的に非常に大規模な温暖化が起こっていたこと,海水面の大幅な上昇(200 m前後)が起こっていたことが知られており,世界の気候は現在とは大きく異なっていたと推測されている.
当時,世界全体の気温が上がっていたのは確かなのだが,では,極地ではどれほどの温度に達していたのだろうか?極地の氷は溶けていたのかいないのかは,当時の気候をモデル化するうえでも非常に重要なポイントとなる.過去の研究では,8900〜8400万年前において(当時の)南極点から2500 kmほどの場所(これは南緯67.5度あたりになる)で,年平均気温が15〜21 ℃程度であったという見積もりがなされている.今回の論文は,もっと南極点の近くまで温暖な気候であった,という結果を報告している.

著者らの研究は,西南極のパインアイランド付近での海底掘削によるサンプルの分析に基づいている.この辺りはかつてジーランディア(かつて存在した小さな大陸.現在は大部分が海面下に沈み,ニュージーランドなど一部のみが海上に表れている)が南極大陸とつながっていたあたりになり,当時の南極点からわずか900 km付近,南緯82度のあたりに相当する.
掘削の結果得られたサンプルは,海底下17〜24 mあたりまでは砂利を含んだ珪岩であり化石を含んでおらず,あまりデータは得られなかった.ところがそれより深い位置には,薄い硬くなった褐炭の層を挟んで,3 m以上深くまで伸びた植物の根の痕跡が発見された(サンプルのCTによる構造は動画で公開されている).この部分をさらに詳細に分析すると,多数の花粉や胞子が発見され,周囲に多くの植物が存在したことが確認できる.発見された花粉・胞子から存在していた植物を解明し,当時南極大陸に接していたジーランディアに存在していた植物(これは,現在のニュージーランドの地層から発見される植物である)と比較することで,この地層はおよそ8300〜9200万年前のものであると結論づけられた.
さらに詳細な分析を行うため,この部分の土壌から有機物を抽出し,そこに含まれる炭素-窒素比,炭化水素の鎖長,異質細胞特異的糖脂質(heterocyst specific glycolipid,シアノバクテリアの作る糖脂質)に含まれるtriolとketo-diolの量の比を分析した.炭素-窒素比や炭化水素の鎖長ははその生物が水棲の場合低い値に,陸生の場合は高い値になることが知られており,また異質細胞特異的糖脂質のtriolとketo-diolの比はシアノバクテリアが生息していた環境の温度等に影響を受ける.つまり,これらを分析することで当時の環境が推測できるわけだ.その結果,この場所はかつて淡水の沼地(とか湿地とか)であったこと,しかも比較的大きなサイズ(いわゆる樹木などのサイズ)の植物も数多く存在したことが判明した.これと無数の花粉や胞子,よく伸びた根のネットワークの存在などと組み合わせると,森のように無数の植物が繁茂する沼/湿地のような場所=温帯雨林であったと言える.ただ,南極には非常に長い夜(いわゆる極夜)があり,1〜2か月の間日が差さない.ここを植物がどう乗り切っていたのかはこれからの研究が必要だろう(現在の冬のような状態で休眠か?).
土壌に含まれる鉱物はカオリナイトが70%程度,粘土鉱物のスメクタイトが30%弱であった.これらは化学的な風化作用が強かったことを示しており,現在で言えば熱帯雨林などが対応するが,これは著者らの気温に対する推計には合致しない(推定される気温は次に書くようにもっと低い).そのため,この周囲が沼地などであり,そこで発生する有機酸により風化が促進されていたのだろうと推測される.
今回の結果から推測される年平均気温はおよそ13 ℃であり,年間降水量は1120 mm程度.最も気温が高い真夏の平均気温はおよそ18.5 ℃と推定された.この平均温度は,以前の別の研究でなされた「極点から2500 kmのところで年平均15〜21 ℃」と大きな差はなく,南極点に向けての気温の変化はかなり小さい(広い範囲で温度が近い)ことを意味している.

気象モデル(COSMOS)を用いこの夏場の気温を再現するには,1120〜1680 ppmの間ぐらいの二酸化炭素濃度が必要と計算される.これは過去の推計と矛盾しない.しかしながら,いずれの場合でも年平均気温は今回求められた13 ℃には遠く及ばず,例えば1120 ppmでは-5 ℃程度,1680 ppmでは0 ℃程度と,かなりの開きがある.これに関しては,今回の計算では植生を固定しての計算であったためで,実際には南極大陸のほとんどが緑地に覆われていてアルベドが低い(氷だと反射する光を吸収するので,もっと温度が上がる)ことなどが効いていると考えられる.逆に言うと,今回のサンプルの分析から推定される温度を満たすには,南極大陸の大部分の氷が消えており,十分植物が繁茂していることが要請される.

そんなわけで,後期白亜紀の少なくとも一時期(チューロニアンからサントニアンのあたり)では南極大陸が温帯雨林の豊かな植生に覆われていたらしい,という研究結果であった.いやー,研究する人の執念というか,いろいろな環境分析手段が開発されてるもんですねぇ.土壌中の有機物を抽出してHPLCで分離,マスで見るとか,これだけ古いものでもできるってのは驚きです.(2020.4.3)

 

217. カシミール効果により真空ギャップを超えるフォノンによる熱伝導

"Phonon heat transfer across a vacuum through quantum fluctuations"
K. Y. Fong et al., Nature, 576, 243-247 (2019).

固体中での熱伝導は,そのほとんどが格子振動=フォノン(と,伝導体の場合は伝導電子)によって伝達される.当然のことであるが,物体の間に真空のギャップが存在すれば両者は物理的に切り離されており,フォノンによる熱伝導は起こらない.しかしもし両者の間に何らかの引力などの相互作用が働けば,ギャップの一方の側の物体表面での振動が相互作用を介してギャップの反対側の物体に伝わるため,真空ギャップを介してのフォノンによる熱伝導を実現することができる.
さてここで,二枚の平行な金属板を考えよう.この金属板が存在しない場合,空間中にはありとあらゆる波長の光が量子揺らぎ(ゼロ点振動)の分だけ励起されている.ところが金属板が存在すると,二枚の金属板の間に励起できる光(定在波)は,金属板の間隔の整数分の一の波長をもつものに限られてしまう.金属板の外側では空間が十分に広いためありとあらゆる波長の光(のゼロ点振動)が励起されるのに,二枚の金属板の間の空間では励起される光が大幅に減少し,その結果として非常に近接した二枚の金属板間には引力が働く.いわゆるカシミール効果というやつだ.
このカシミール効果を考慮に入れると,二枚の近接した金属板間には真空中であっても相互作用が働くため,フォノンによる真空ギャップを超えた熱伝導が可能になるはずだと予想される.しかしながらそのような効果は測定が非常に難しく,これまで実験的には検証することができなかった.カシミール効果は金属板の間隔が狭くなるほど強くなるのだが,同時に金属原子間のファンデルワールス力や微妙な電位差による静電引力なども大幅に増えてしまい,それらを通じた熱伝導ととカシミール力を通しての熱伝導が分離しにくくなってしまうためだ.
今回著者らはさまざまな工夫によりその困難を乗り越え,カシミール力による金属板間のカップリングを通したフォノンによる熱伝導を測定し報告している.

著者らが用いた金属板は,ナノ加工ではお馴染みの窒化ケイ素(Si3N4)の表面に金を蒸着したものである.Si基板の表面にごく薄い窒化ケイ素を成長させ,その後基板をエッチングすることで窒化ケイ素の薄膜(が,分厚いSiの一部に窓のように融合した構造)が作れる.その両面に金を蒸着することで薄い導電性の板を作成している.
前述の「他の力との分離が難しい」という部分に関しては,金属板の間隔を500 nm前後とかなり広くとることによりファンデルワールス力などの寄与を無視できるまでに低減,さらに二枚の板に電位差を自由につけられるようにすることで自然発生してしまう電位差による引力を相殺する(どの位置で相殺できるか,電位差をスキャンすることで判別可能).金属板の間隔がかなり開いたことによるカシミール力の弱体化は,非常に精密な熱測定を行うことで強引にクリアしている.どうするかというと,金属板(薄膜)の温度の測定を,そこに励起されている熱振動の強さとして検出し,薄膜の振動は薄膜裏面(二枚の金属板が向かい合っている側を表とすると,外側)の蒸着された金をミラーとして用い,近傍にハーフミラーを設置.その間を共鳴空洞とすることで光の干渉測定を行うという手法になる.なお,測定のためのレーザーは非常に低エネルギーに制限しており,これによる加熱は無視できる程度に小さくなるように設計されている.

          薄膜  薄膜
       |   |  |   |
レーザー → |・・・|  |・・・| ← レーザー
       |干渉波|  |   |
     ハーフミラー     ハーフミラー

左右の薄膜は,製造上のばらつきによりどうしても振動数がわずかにずれてしまう.異なる振動数では,カシミール力を介した両者の振動がうまくカップルしないので,ヒーターとクーラーによる温度差をつける.温度が変わるとSi基板と窒化ケイ素の膨張率の違いにより,薄膜にかかっている張力が変化する.これにより温度を変えることにより薄膜の振動数を変えることができるので,一方の薄膜(の張り付いたSi基板)を冷却系により冷やし,もう一方の薄膜(の張り付いたSi基板)をヒーターにより加熱し,両薄膜の振動数が一致するように設定する(各薄膜の振動数の温度依存性は,レーザーを用いた干渉測定により測定できる).この温度差は,二枚の薄膜間での熱伝導の駆動力としても同時に働くこととなる.
なお,精密な測定のため,両薄膜は非常に平行度が高くなるように調整されており,その誤差は10-4 rad以下だそうだ.

では測定結果に移ろう.
装置内を真空にし,二枚の薄膜の間隔を800 nmにすると,両薄膜間での熱伝導はほぼ起こらなくなる.このため薄膜(に励起されている振動の温度)は高温側が312.5 K,低温側が287.0 Kと,Si基板の温度と一致する.この薄膜間隔を狭めていくと,650 nmを切ったあたりから徐々に2枚の薄膜の温度が近づいていき,およそ400 nmあたりでほぼ同一の温度を示すようになった.これは,高温側の薄膜から低温側の薄膜に熱が伝わり,両者の温度が均一になったことを意味している.

もちろん輻射による熱伝導や,物体表面に励起されるエバネッセント波を介しての熱伝導,はたまた金属表面のプラズモンやポラリトンといった電子の励起による相互作用も熱伝導を担う可能性がある.それらの可能性を排除するため,二枚の薄膜が共鳴状態とならないような温度差にして同様の測定を行った.先ほど述べたように.もともと二枚の薄膜の振動数は異なっており,特定の温度差を選ぶことでちょうど振動数が一致するようにしていたわけなので,その温度差を変えて振動の共鳴が起こらないようにしてやったわけだ.
すると今度は先ほど見られたような大きな熱輸送は現れず,薄膜間隔を400 nmぐらいに接近させても温度差はかなり大きく維持されたままであった.このことから,薄膜間での熱伝導の起源がフォノンの共鳴を介したものであることがはっきりとし,真空ギャップを超えてフォノンが熱伝導を担えるということを実証している.
なお測定結果に関しては,カシミール力を取り入れた計算から求まる熱伝導度の薄膜間距離依存性が実験地と非常に良い一致を見せており,理論面からも裏付けが得られることとなっている.

近年ナノ領域での放熱,熱伝導などはかなり熱い分野なのだが,まさかカシミール力が熱伝導にかかわってくるとは思わなかった.大変興味深い.(2019.12.13)

 

216. 電圧駆動のナノサイズ機械素子を利用した光の高効率スイッチング素子

"Nano-opto-electro-mechanical switches operated at CMOS-level voltages"
C. Haffner et al., Science, 366, 860-864 (2019).

現在のCPU等の発熱が大きい理由の一つが,駆動が電流によりなされる一方で電気抵抗によりそのエネルギーが熱に代わってしまう点にある.電流による損失の問題を解決する手段の一つとして電流以外を用いたプロセッサが提案されており,例えば電流の代わりに電子のスピンの流れ(スピン流)を用いるものなどの研究が進んでいる.
そういった研究の一つに「光による演算」というものもあるのだが,演算の全過程を光のみで制御するのは現時点では現実的ではなく,現在一般的に用いられている電気的な素子により光学的な素子を駆動し,両者を組み合わせたハイブリッドな回路が現実的な解として挙げられる.さらに,オンチップで電気-光学素子が組み込めれば,素子間を光通信で繋いだり,現在の光通信関係の装置をより小型化・効率化できるなど利点も多いことから,半導体メーカー各社を含め「電力駆動の光学素子」に関する研究例は多い.

電気的に光の経路をスイッチングするにはいくつかの手段が考えられる.例えばデジタルミラーデバイス(DLP型のプロジェクタに入っているあれ)のように機械的に鏡を動かすものなどもあるが,より素子に組み込みやすいものとしては「電流や電圧により局所的に屈折率を変化させ,共鳴条件を変える」というものが挙げられる.二つの導波路を極近傍に配置すると(例えば,x方向に伸びる導波路の上にy方向に伸びる導波路を載せる,など),両者の間にうまく共鳴条件が成り立つ(=波がちょうど透過するような条件になる)場合にはほぼ完全に光がもう一つの導波路に移り,屈折率がどこかで微妙に変化して共鳴条件から外れると途端に光はもとの道を直進するのみになる.これを利用すると,ある部分(2つの導波路の間であったり,一方の導波路の一部分であったり)の屈折率変化をon/offするだけで光の進行方向を切り替えられるようになる.
ここで問題になるのは「どうやって屈折率を切り替えるか?」である.一つの方法としては近傍に設置したヒーターの加熱により温度変化を起こす,というものなのだが,想像通りこれは効率が悪く,しかも冷えるための時間が必要となるため繰り返し周波数も低くなる.電圧引火により屈折率が大きく変化するような特殊な材料を使った素子も報告されているのだが,そういう材料は既存のCMOS作成プロセスに組み込むことが難しいなど問題も多い.
今回著者らが論文で報告しているのは,CMOSプロセスフレンドリーなありきたりな材料を使って,導波路部分の屈折率を大きく変化させることに成功し,光の高効率スイッチングを実現した,というものになる.

著者らが何を使ったのかというと,電圧印可による機械的な変形である.まず,直行した方向に伸びる二つの導波路(Si上に作られた棒状の出っ張り)を作成する.そしてその交点近傍に,円盤型の機械的動作を行うスイッチング素子を作成する.

↓入射光



■〇←スイッチ
■□□□□□□□□□□□□→切り替え時の出口




↓透過光

スイッチング素子は,横から見ると3枚の円盤を積み重ねたような構造をしている.

■■■■■■■■■■■■■■■■■ ←金薄膜(厚さ約40 nm)
    □□□□□□□□
    □□□□□□□□ ←アルミナのスペーサー(厚さ約40 nm)
    □□□□□□□□
■■■■■■■■■■■■■■■■■ ←Si基板

Si基板と上の金薄膜との間に電圧を印可しなければ,この構造のままであり屈折率には何の影響も及ぼさない.一方,Si基板と金薄膜との間に1 V程度の電圧を印可すると,両者の間に電気的な引力が働くため,金の薄膜が下向きにたわむ.

  ■■■■■■■■■■■■
 ■  □□□□□□□□  ■
■   □□□□□□□□   ■
    □□□□□□□□
■■■■■■■■■■■■■■■■■

金は非常に強い表面プラズモンで知られる金属であり,金表面に近い部分(素子の隙間の空間および薄膜の下に位置するSi基板)はその影響を非常に強く受ける.また同時に,Si基板と金との隙間部分のサイズも変わる.この二つの効果により,このスイッチング素子部分の実効的な屈折率(のようなもの)は電圧のOn/Offで非常に大きく変化することとなる.
最初の図に示した光の経路を考えると,光が右に経路を変えるためには導波路→スイッチ部分→右向きの導波路,という経路が共鳴条件を満たす必要がある.例えば「スイッチがOffの条件(金薄膜が曲がっていない状態)でちょうど共鳴する」ように素子を作っておけば,電圧を何も印可しなければ光は全て右から出力され,一方電圧を印可すると経路途中のスイッチ部分の屈折率が変化=全体で共鳴条件を満たせなくなり,光はそのまま下方へと直進するようになる.
とまあ,著者らはこのような仕組みで光のスイッチングを成し遂げたわけだ.なお,この素子はSi,アルミナ,金だけで作成されており,現在のCMOSプロセスとの相性は非常に良い.また,スイッチングは電圧の印可だけであり電流をほとんど伴わないので,消費電力も非常に低くできる.著者らの素子の消費電力(素子部分のみ)はおよそ6 fJ(1.4 V駆動)〜130 aJ(0.2 V駆動),100 MHzでスイッチングすると消費電力はおよそ600 nW(1.4 V)〜12 nW(0.2 V)となる.
※当然,高い電圧で駆動した方がより共鳴から外せるため,S/N比は高くなる.

では実際どの程度の効率でスイッチングが可能なのかということだが,1.55 μm程度の赤外レーザーを通している場合,1 V程度印可すると共鳴周波数が6 nm程度ズレることが確認された.6 nmというのは作成した導波路の透過波長幅の5倍程度あるため,共鳴からはほぼ完全に外れる,つまり通常時に共鳴により抜けていた方向には,電圧を印可するとほとんど出ていかなくなることを意味している.
透過側に抜けるようにした場合のロスはわずか0.1 dB,スイッチにより切り替えた右へ出る場合のロスは2 dB,クロストークは-15 dBと,光のロスや漏れもかなり少なく実用的な数字である.スイッチの切り替え速度は現時点でおよそ100 ns,最適化すれば10 ns程度までは原理的には行けると著者らは記している.
さらに,多数のスイッチが容易に集積可能であることを示す例として,著者らは150 μm四方程度の領域に15×15のクロスバースイッチを作成して見せている.こちらは15×15=225個のスイッチにより,15本の入射光をそれぞれ任意の15本の出口(またはそのまま直進した方向)に出力することのできる素子である.

演算素子としての光プロセッサの実現性はともかくとして,光通信や光を用いた各種物理的な実験(量子系の実験も含む)などには面白い素子かもしれない.(2019.11.19)

 

215. デジタルマイクロミラーデバイスを用いた三次元微小構造の高スループット製造

"Scalable submicrometer additive manufacturing"
S. K. Saha et al., Science, 366, 105-109 (2019).

光硬化樹脂に光を集光してあてると,ピンポイントに硬化させることが可能になる.さらに2光子吸収過程によってのみ硬化するようなセッティング,つまり単一の光子ではエネルギーが足りないが,2つの光子を同時に吸収するとそのエネルギーで硬化するような波長の光を用いると,通常の光励起による硬化よりもさらに細かい領域でのみ硬化が起こり(*),一段と小さな造形を行うことができる.

*1光子励起の確率はラフに言って光強度に比例するが,2光子吸収は光強度の二乗に比例するので,それだけピークがシャープになる.そのため十分に光強度の強いスポット中心部のみで反応が起こり,より微細な領域のみが硬化する.

さてこの2光子励起による硬化はサブミクロンレベル(大雑把に言って100〜500 nm程度)の分解能で造形を行えるのだが,スループットに難があり,3Dプリンタ的に使ってサブマイクロメートルの微細構造を量産するという面からは難があった(いやまあ,3Dプリンタも早くはないが).
集光した光で3D構造を作るにはいくつか方法があるのだが,例えば集光点をスキャンする方式は微細な構造を自在に書けるものの速度が遅く,同じ構造を量産したり大きな構造を作成するには向いていない.専用のホログラフィーマスクを用いて3次元的な任意形状の集光面を作る手法は,あるきまった形を量産するには良いが,違う構造を作ろうとするたびに作成が面倒なマスクを作り直さなければならないという問題があり,3Dプリンタ的に毎度異なる形状を好きに作成するような用途には向いていない.
そんな「任意形状の微小3次元構造を,高スループットで作りたい」という目的を達するために今回の論文の著者らが用いたのがデジタルマイクロミラーデバイス(DMD)である.

DMDは身近なところではプロジェクター(いわゆるDLP式のプロジェクター)などに使われているデバイスで,テキサスインスツルメンツ(TI)によって開発されたMEMSの一種である.今回の実験で使われたものもTI製のLightcrafter 6500 DMDで,1920×1080枚のミラーが並べられたチップとなっており,各ミラーは中心間距離およそ7.56 μmで並んでいる.要するに波長に近いようなサイズのミラーが無数に並べられたチップで,電気的な引力により個々のミラーを個別に傾けることで光の反射方向を変えることができる.
著者らはこれを利用し,各ミラーを適切にOn/Offすることで光の干渉を発生させ,標的(=液滴中の光硬化樹脂)中に任意の干渉パターンを生成した.干渉で強め合う部分は光強度が高くなり硬化し,そうでない部分は光が弱く固まらない.その結果,任意の3D形状が作成できるというわけだ.しかもDMDを使っているので,ミラーの向きをデジタルに切り替えるだけで違う形状の3次元構造が作成できる.

ただ,実験の詳細を見ればわかるように話はそう簡単ではない.著者らは実験ではフェムト秒レーザーの短パルス(35 fsぐらい)を用いて3次元構造の作成を行っている.短パルスレーザーの波形は波長に近い程度の幅しか持たない短パルスであるが,この形状を波の重ね合わせで作るためには無数の異なる波長の波を重ね合わせねばならない.このためパルス長が短くなると自動的に光は多色化し,幅広い波長の光の足し合わせとして表現されることとなる.今回の実験で用いられているのは35 fs(空間的な長さにして10 μm程度)とある程度長いパルスではあるが,波長にして800±40 nm程度の幅を持つ.
このように波長に幅を持つ光がDMDに入射し干渉を起こすと何が起こるかというと,回折格子と同様に異なる波長ごとに微妙に違う向きに反射光(回折光)を生じる.つまり,波長ごとに異なる光路長を実現できる.この光路長のズレを経路の後段でうまいこと補償するような光学系を組むと,焦点位置でのみ各波長の光の光路長が等しく,そこからズレた位置では光路長が異なる,というようなものが実現できる.こうすると何が良いのかというと,超短パルス=時間当たりのエネルギー密度が非常に高く反応を起こしやすい状況は焦点位置のみで実現され,それ以外のズレた位置では波長が違う光ごとに少しズレた時間に到着するためエネルギー密度が低いという状況を作れるわけで,要するに焦点位置のみで光硬化反応が起き,そこからずれると急激に(時間軸方向での)エネルギー密度が下がることにより光硬化が起きなくなるわけだ.通常の集光による光硬化反応だと焦点位置から少しズレた位置でも光強度がそこそこ強くなってしまうため分解能が落ちる.それを「焦点位置からずれると,短パルスレーザーのエネルギーが(時間軸方向で)バラけて反応を起こさない」ことになり,非常に細かい造形が可能となるわけだ.

そんなわけで実際の造形である.
原理と,これまでのレーザーのスキャンによる造形(遅い)と今回の手法(早い)との比較のイメージ動画がSupplementary MaterialsのMovie 1に上がっているので,まずはそちらをご覧いただきたい.ラインで描画していく既存の手法に比べ,ワンショットの露光で広い面積に構造体を作成できることが見て取れる.ちなみに,実際の造形においてシングルショットにかかる時間は約20 msであり,一度に露光できる面積は165×165 μm,ワンショットで作成される構造体の厚みは1 μm以下程度〜4 μm程度である(フォーカスにより可変).ナノワイヤーを作成した際の最小幅はおよそ130〜140 nm,垂直方向で175 nmと,サブマイクロメートルの構造体をシングルショットで作成できる.フォーカス位置を変えながらの作成では,例えば2.20×2.20×0.25 mm3という目に見えるサイズ(内部はサブマイクロメートルの構造を持つ)の構造体の造形に8分20秒で成功している. ※ただし干渉を利用しているので,基本的にはメッシュ状の構造を重ねて立体を作る形になる.

実際に作成された構造の例はSupplementary MaterialsのPDF中のFig. S13〜S16をご覧いただきたい.

この手法の優れている点は,既存の手法のトップレベルの微細な構造の作成を可能としたまま,作成速度を(同程度の分解能の既存手法に対し)4桁近く向上した点にある.つまり,ものすごく早く微細な構造が作成できる.逆に同等のスループットの手法と比べると,水平方向の分解能で1桁以上向上している.同等の速度の手法と比べると相当微細な構造が書けるようになるわけだ.

ナノ構造体をそこそこ大面積で量産できるので,ちょっとした実験用の光学的メタマテリアルだとか,ナノ構造による抗菌コーティングだとかには使えそうな気がする.この手の3次元造形手法は近年いろいろ面白いものが出てきて興味深い.(2019.10.8)

 

214. ニッケル層状酸化物で見つかった超伝導

"Superconductivity in an infinite-layer nickelate"
D. Li et al., Nature, 572, 624-627 (2019).

銅酸化物系高温超伝導体はその優れた物性から数多くの研究が行われているが,特異な高い転移温度の起源はいまだによくわかっていない.銅酸化物系高温超伝導体においては,銅原子とそれを取り巻く酸素原子からなる二次元平面が伝導性および超伝導を示すことが知られている.
この二次元平面内において銅原子は+2価=d電子が9個の状態となっており,各サイト=各銅原子につき1つのキャリアが(d軌道上に)存在する状態となっている.この銅イオンのd軌道はエネルギー的に近い酸素原子のp軌道と混ざり,2次元的な電子構造を作っている.
各サイトのキャリアは隣のサイトに移動できるのだが,移動すると「移動先にもとからあった電荷」+「移動してきた電荷」となるため銅原子上に二つの電荷が同時に存在する状態となってしまい,強いクーロン反発が働く.銅酸化物系超伝導体の母物質(ドープされていない状態)においてはこのクーロン反発の大きさが電子を移動させようとするサイト間での軌道の重なりよりも十分大きいため,電荷は隣に移動できず,各サイトに1つの電荷が固定された絶縁体(Mott絶縁体)が基底状態となる.この基底状態では,銅原子上に固定された電荷の持つスピンは隣接サイトで逆向きとなり,反強磁性状態が実現する.
このMott絶縁体の反強磁性状態にわずかに電子,もしくは正孔をドープすると,以下の1次元系モデルに示すようにキャリアが自由に移動できるようになる.

基底状態
---(↑ )---(↓ )---(↑ )---(↓ )---(↑ )---(↓ )---(↑ )---(↓ )---(↑ )---(↓ )---

電子が移動した状態
---(↑ )---(↓ )---( )---(↑【反発】↓)---(↑ )---(↓ )---(↑ )---(↓ )---(↑ )---(↓ )---

あらかじめ正孔がドープされた(=一部の電子を引っこ抜いてある)物質の基底状態
---(↑ )---(↓ )---(↑ )---( )---(↑ )---(↓ )---(↑ )---(↓ )---(↑ )---(↓ )---

そこから電子が移動した状態(電子が移動しても反発が生じない)
---(↑ )---(↓ )---( )---( ↑ )---(↑ )---(↓ )---(↑ )---(↓ )---(↑ )---(↓ )---

このように少しキャリアをドープした系においても,反強磁性自体は維持されることがわかっている(ただし,少し揺らぎが生じる).「銅酸化物系高温超伝導体の超伝導はなぜ発生しているのか?」はいまだ謎に包まれているが,この「Mott絶縁体・反強磁性相に少し電荷がドープされた状態により,磁気的な揺らぎが生じる.これが電子間を結びつける何らかの引力を生み,それにより高い温度で超伝導が出ているのではないか?」というのが定説となっている(異論もある).
もう一つの高温超伝導体である鉄系超伝導においても,母物質は鉄のd軌道に由来する反強磁性相であり,「反強磁性相にキャリアをドープすると超伝導が出る」という点は同じである.このため,反強磁性相を崩しかけた時の揺らぎが超伝導の発現に重要だと考えられている.

さて,そんな中発表されたのが今回の論文である.今回の論文は,「Cu2+と同じ電子数であるNi+を使って,銅酸化物系高温超伝導体と同じ状酸化物層構造を含む物質を作ったら,超伝導が出た」というものになる.Niは通常+2価をとりやすく,時々+3価になる元素なのだが,著者らは強引に還元することにより+1価のニッケルというちょっと変わった酸化数のイオンを含む物質の薄膜を作り上げた.するとこの薄膜が超伝導を示したというものになるのだが,その意味するところはかなり大きい.
著者らはまず,LaNiO2の薄膜を作り研究を行った.作成法としては,基板上に成長させたLaNiO3の薄膜をCaH2(に含まれるH-)で還元し,LaNiO2の薄膜としている.この物質はある程度電気は流すものの温度依存としては低温で抵抗が増大する絶縁体であり,La3+の一部をSr2+で置換して(こうすると,Ni+の価数が増える)キャリアをドープしてやっても絶縁体であることには変わりがなく,超伝導も現れなかった..

そこで著者らはとりあえず金属性を上げてやろうと,Laの代わりにNdを使用してNdNiO2の薄膜を作成した.ランタノイド類は周期表の右の元素ほど微妙にサイズが小さいという特徴があるため(ランタノイド収縮),LaをNdに変えることで結晶格子が少し縮む.すると原子間が近づき軌道の重なりが増え,電子は隣のサイトに移動しやすくなり金属性が増す(バンド幅が増える).そうして作成したNdNiO2は目論見通り室温〜70 Kあたりまでは温度の低下とともに抵抗が低下するという金属的挙動を示した.
※それ以下では温度の低下でやや抵抗が増大する.
続いて著者らはここにキャリアをドープするために20%ほどのNdをSrに置き換えたサンプルを作成し測定した.するとこのサンプルはおよそ15 Kあたりから抵抗が急減し始め(いわゆる超伝導体で言うところのonset),9 Kあたりで抵抗がゼロ(正確にはノイズレベル)にまで低下する超伝導が発現した.この超伝導は比較的安定して発現するため,いくつものサンプルを作成しても超伝導が現れるなど再現性が高く(ただし,転移温度は多少上下する),しかも磁場の印可や電流密度の上昇による超伝導の抑制も綺麗に見えているなど,超伝導の出現そのものに関しては疑いようがないと思われる.
※なお著者らは,基板の影響(格子定数の違う基板上に薄膜が成長していることによる,引き延ばし or 圧縮方向の力の効果)に関しては今後の検討が必要と述べている.

では,この研究はどんな意味があるのだろうか?
超伝導転移温度そのものは(onsetで)15 K程度と大したことはないのだが,Ni+の層状酸化物で超伝導が出た,という点がポイントになる.このイオンはかなり無理やり還元して作っているため,軌道のエネルギーが非常に高く,酸素の2p軌道とはほとんどカップルしていない.銅酸化物系高温超伝導体の二次元酸化物層と全く同じ構造ながら,電子的には酸素の軌道が関与しないため大きく異なってくる.
さらに,母物質が反強磁性ではない点も重要だ.鉄系も含め既存の高温超伝導体は2次元反強磁性相にちょっとドープすると超伝導,という特徴があった.ところが今回の系に関しては,母物質のNdNiO2の磁性は少なくとも1.7 Kという低温まで常磁性のままであり,反強磁性ではない.つまり,銅酸化物系などで考えられていた超伝導発現のメカニズムは今回の系に対しては全く適用できないということになる.
もちろん,今回の系が既存の高温超伝導体と何の関係もなく,単なるBCS超伝導的なものがたまたま銅酸化物とそっくりな構造の物質で出た,という可能性もある(この場合,特に面白いことは何もない).しかしながら,もし今回の系で観測された超伝導が銅酸化物系高温超伝導体と起源を同じくするものであった場合,反強磁性Mott絶縁相とそこにドープした際のスピンの揺らぎに注目したこれまでの研究が実は的外れであった,という可能性も出てくる.この辺りは今後の多くの研究を待たねばならないが,近年行き詰りつつある銅酸化物系高温超伝導体研究の新たな突破口になれば面白い.(2019.8.31)

 

213. 超高速レーザー溶接によるセラミックの接合

"Ultrafast laser welding od ceramics"
E. H. Penilla et al., Science, 365, 803-808 (2019).

何やらずいぶんと久しぶりになってしまいました.
最近は論文書いたりオープンキャンパスのごたごただったりが重なり,論文,読んではいるんですがこういう形にまとめる時間がなかなか取れませんでした.困ったものだ.

各種の金属材料を局所的な加熱により溶融し接合する溶接は,現代社会のさまざまな製造の現場において欠かすことのできない要素である.
現代社会を支える材料としては金属以外にもいろいろなものが利用されており,例えば各種高分子材料やセラミックはその代表格だろう.高分子材料に関しては比較的低い温度で溶融・成型できるし,またものによっては溶媒に溶かして柔らかくしたりもできるため加工性が高い.
一方,セラミックはその耐熱性,絶縁性(もちろん,電子材料となるセラミックもあるが),安定性などから多くの場所で利用されているが,一度作成した部品を後からくっつけることはその耐熱性が仇となりなかなか難しい.不可能ではないのだが,例えば部品を接合した状態で数百 ℃以上の高温で長時間保持する必要があるなどあまり容易ではないうえに,全体を高温処理してしまうために他の熱に弱い材料(例えば高分子材料であるとか,電子素子類であるとか)を組み込んだ状態では加工ができない.
セラミックにおいても金属と同様の溶接が可能となれば,その利便性は大きく向上することだろう.

(金属の)溶接の手法はいくつか存在するが,今回の論文と関係するのはレーザー溶接である.これはレーザーを金属部品の接合部に集光,局所的に加熱することによりその部分のみを溶融し接合するという手法であり,近年利用が大きく伸びている.このレーザー溶接をセラミックに応用することは可能だろうか?
一般的なレーザー溶接においては,レーザー光が集光された場所では局所的に数千 ℃の高温が発生しており,これにより金属の溶融&気化が引き起こされ溶接されている.この温度はセラミックを溶融するにも十分な温度であり,同様の手法でセラミック部品の溶接が可能になりそうなものである.
そのような観点から過去にいくつかの研究が行われてきたのだが,局所的に大きな熱勾配が発生することによりセラミックにクラック(ひび割れ)が入り部品が破損してしまう,という問題点が明らかとなった.
今回の論文で著者らが報告しているのは,レーザーを非常に短パルスのピコ秒・フェムト秒レーザーとするとこのクラックが抑制され,セラミック材料の溶接が可能になる,というものである.

過去の研究でなぜクラックが入ってしまったのかといえば,レーザーを照射したことで温度が上がり部品の場所ごとの温度差が生じてしまったことが原因である.これを回避できる手法として著者らが注目したのが,2016年に発表されたガラスのレーザー溶接だ.ガラスを普通にレーザー溶接しようとすると温度差によって割れてしまうのだが,超短パルスのピコ・フェムト秒レーザーで加熱すると,一発で吸収される熱の総量が小さくなるため,焦点部位のみ瞬間的に強熱され融解 → 熱はトータルでは少ないのですぐに拡散し冷却,となり,溶融した部分以外での温度勾配がほとんど生じず,レーザー溶接が可能となる.それを著者らはセラミックに適用したわけだ.
なお,こう言った短時間にエネルギーを集中させた強光子場の条件では,非線形的な吸収の寄与が大きくなることが知られている.通常の弱い光では,物体に吸収される光は当てた光の強さに比例する(線形).ところが強い光のもとでは非線形項(光の強さの2乗や3乗などに比例する項)が無視できない大きさとなってくるため,光の強さのn乗(例えばn = 2とか3とか)に比例するような吸収が生じてくる.これはつまり「光の強さが半分になると,吸収される光(熱)が1/4になる(n = 2の場合)」というようなことが起こってくるわけで,通常の線形の吸収の場合に比べ「光の強いところでのみ凄く大きな熱が生じ,そこから少しずれると急激に吸収される熱が少なくなる」という効果をもたらす.要するに,「極短パルスレーザーを使うと,通常以上に狭い領域のみを加熱できる」ということになり,ピンポイントの加熱・溶接に向いているわけだ.

著者らは今回,レーザー溶接をデモンストレーションするにあたり材料としてイットリア安定化ジルコニア(いわゆるキュービックジルコニアの仲間.透明な材料も作れる)およびアルミナを用いている.これらはいずれも融点が高く溶融させての接合がなかなか大変であるが,工学的な用途が非常に多いセラミック類である.
今回セラミックのレーザー溶接法としては,以下の2つの配置を試している.

一つ目は円筒型のセラミック(不透明)に対し円盤状のセラミック(透明な窓)をはめ込み,その接点をレーザーで加熱して融着する方法だ.この部材全体を回転台に乗せ,パルスレーザーを照射しながら回転させることで一周ぐるりと溶接する.
この場合,はめ込んでいる窓が透明であるため比較的自由な位置に焦点を持っていくことが可能で,深さ方向にも焦点を変えながら溶接を行うことができる.
著者らはデモンストレーションとして半導体のチップを中に入れた状態で蓋を溶接して見せ,「熱に弱い部材を中に入れたまま,セラミックを溶接して封入できるよ」ということをやって見せている.窓材は透明なものを用いているので,やろうと思えば中に光通信が可能な回路などを封入した,「セラミックにより外部環境から守られたまま,光(や電波)で外部と通信するアイテム」が作成可能になると考えられる.

二つ目に行ったのは,二つの円筒(不透明)の接合である.この場合は部材が不透明であるので,一般的な金属のレーザー溶接と同様に二つの部材をかなり短い距離(10 μmぐらい)だけ離して設置し,その隙間部分にレーザーを集光する,という方法で溶接している.集光部の周辺が熱で溶けて広がり,狭い隙間を埋めることで部材が溶接される.円筒を中心軸に沿って回転させながら溶接することで,一周ぐるりと溶接して繋げた一つのパイプへと加工している.

短パルスレーザー溶接により接合された部材は非常にきれいに接合しており,例えば真空チャンバーにつないで真空にひいてやると超高真空ぐらいまで引けているし,剪断応力を見てやると通常の加熱接合により金属につないだ場合と同程度の40 MPaという結構な強度を実現できている.なお強度に関しては,今回は最適化までしていないので,今後もっと上がる可能性もある,とは書かれている.
また,局所的な加熱であるため既存の電気炉を用いた融着(部材に応力をかけながら数百 ℃に加熱,長時間放置することで原子を拡散させ融合させる)に比べエネルギー効率が高いことも謳われている.著者の言うところでは,電気炉を使うと5 kWh程度の電力が必要なところが,25 Whでよい,ということになるわけだ(ただし,同じ電気炉で複数の部材を同時に処理すれば,電気炉側の効率はもっと上がるが).

そんなわけで,セラミックに適用できるレーザー溶接であった.論文ではほかにも,パルス幅や繰り返し周波数の影響などについても実験・考察が行われていたが割愛.
これがどの程度産業的にインパクトがあるのかはわからないが,素人目にはなかなか面白い展開がありそうな印象も受ける.(2019.8.27)

 

212. 水の二相モデルは幻か?:新たな実験結果

"Absence of amorphous forms when ice is compressed at low temperature"
C. A. Tulk, J. J. Molaison, A. R. Makhluf, C. E. Manning and D. D. Klug, Nature, 569, 542-545 (2019).

水というのはかなり特異な振る舞いを示す液体である.例えば通常は固体は液体より密度が高いのに氷は水より密度が低かったり,融解後に昇温とともに密度が増加する(4 ℃で極大)など,他の物質ではなかなか見られない変わった挙動はよく知られているだろう.これだけなら氷で見られる水分子の水素結合による四配位構造が昇温とともに崩れていく,というだけで説明できるのだが,実は水にはほかにも低温で比熱や圧縮率に発散傾向が現れたり,粘性率に異常が生じたりとさまざまな異常を示し,これら全てを説明するのは現在でも困難である.そんななか生まれた一つの仮説が,「液体の水には二つの異なる構造があり,我々が目にする『水』はこの二つの相がミクロ&動的に入り乱れている」というものだ.

発端は日本の三島らによる高密度アモルファス氷(High Density Amorphous ice,HDA)の発見だ.微小な水滴などを極低温の基板に降らせると液体の水が急冷され,液体の構造を保ったまま固まってしまう.このようにしてできるアモルファス氷は比較的低密度であることから,Low Density Amorphous ice(LDA)と呼ばれる.通常の水が低温でどのような構造をとるのか?ということを知りたかった三島らは,氷の融点が加圧により低下することに注目,十分低温であっても,圧力を印可していけば融点が下がり液化するに違いない,と実験を行ったのだが,そこで発見されたのは結晶性の氷が高圧の印可によりアモルファス構造の氷となる,という実験結果であった.このアモルファス氷は圧力を抜いた後もその構造を保ち続けることが可能であり,しかも通常の氷から加圧だけで作れるためその後多くの実験が行われることとなる.
三島らはこの結果を「通常の氷(ice-Ih)が加圧により融解し超過冷却液体となり,そのまま瞬時に固化してアモルファス氷となった」と解釈した.ここで重要であったのが,この新たなアモルファス相は以前に知られていたLDAよりも明らかに高い密度を持ち(ゆえに,高密度アモルファス氷,High Density Amorphous ice, HDAと呼ばれる),温度を上げると分子運動が活発になった結果としてそれまで知られていた低密度アモルファス氷へと明確な一次転移を示したことだ.これはHDAとLDAが異なる相であることを示唆していた.アモルファス状態(液体のような乱雑の構造のまま低温で分子の動きが鈍り,固体化した)が2種類あるということは,そのもととなる液体の構造が2種類存在する可能性を示している.

さらにその後Pooleらが過冷却水の分子動力学的シミュレーションを行い,過冷却水の安定構造として2つの異なる相があるのではないかと報告した.一方は氷に近い4配位構造を持ち,隙間が多いために低密度である(Low Density Liquid,LDL相).もう一方は水素結合が部分的に壊れ3配位に近くなり,崩れたネットワーク構造の隙間に水分子が入り込むことによる高密度の液体(High Density Liquid,HDL相)となる.
これとHDA,LDAの実験結果を組み合わせることで,液体の水について以下のような仮説が提出されている.

・液体の水は,低温において3配位の高密度構造HDLと,4配位の氷に近い構造を持つ水である低密度構造LDLの異なる相を取り得る.
※そのまま急冷すると,その構造のまま固まったHDAとLDAの異なるアモルファス相を生じる.
・実は室温付近の水というのは微視的にはこのHDLとLDLが分離し,大きなスケールでは混合している状態である.
・温度が上がると,LDLの比率が下がりHDLの比率が上がる.
・塩類などを溶かすと,そのイオンの周囲ではHDL構造があり,周囲のLDL相とは異なる構造となっている.

「均一に見える水が,実は内部では分離した2液の混合物である」というのは非常に刺激的で面白い仮説であり,しかもさまざまな実験結果を統一的に説明できることから大きな注目を集めた.そして実際のそれら2種の液体間の相転移を見よう,という試みもいろいろとされたのだが,

・2液が相分離する臨界点の温度(の予想位置)が低すぎる.このため,高温側から温度を下げていくと先に結晶化してしまい,それだけ低温の過冷却液体が得られない.
・逆に急冷して作ったアモルファス相の温度を上げていく(低温側から近づく)と,ガラス転移温度を超えると同時に液化 → 結晶化が起こりやはり過冷却液体にはならない.

という問題があり,純粋な水においての液液相転移の観測には成功していないのが現状である.
#そして,この「超低温の過冷却状態の温度領域」は,誰も到達できていないことから「No man's land(未踏領域)」と呼ばれている.

さて,そんなわけで三島らの実験以降徐々に市民権を得てきた水の二相モデルであるが,異論も多い.特に問題とされているのが,氷に圧力を印可することで生じたHDA相が本当に水の安定相なのか?という点である.まずそもそも,三島らの実験条件で通常の氷Ihが融解すると予想されていた圧力域は,実際にHDA相が生じた圧力よりももっと低いため,実はあの実験は高圧の印可により氷Ihが壊れ,別の氷の相に移行する過程に過ぎないのではないか,という指摘は以前からあった.
※氷は圧力・温度で非常にさまざまな構造をとることが知られており,17種類以上の結晶構造が知られている.

また,圧力印可時の位置による圧力の微妙なばらつきや,急激に圧力をかけることによる不完全な構造転移なども指摘されており,また近年では理論計算の側からも「液体の水に2つの相はないのではないか?」という話も出てきている.

今回の論文の著者らは,通常の氷である氷Ihにできるだけ均一かつゆっくりと圧力を印可した結果,三島らが報告したようなHDA相への転移は確認されず,別の結晶系の入り乱れた構造を経由して最終的に結晶質のIce-VIII'相への転移が観測された,ということを報告している.

実験の内容そのものは「実験しやすいように重水使って,ゆっくり均一に圧力かけました.構造は中性子回折で見てます」以上のなにものでもないのだが,100 Kにおいてice-Ihに十分ゆっくり圧力を印可するとまずice-IX'に転移する.そしてそれがice-XV'を経由し,その後ice-VIII'相へと転移することがわかり,その途中でHDA相は生じなかった.実はice-VIII'相というのは分子が2グループに完全に分離し,それぞれが作る水素結合のネットワークが完全に分離,互いのネットワークの隙間を貫通しあっているような構造である.これは全体がつながった1つのネットワーク構造を持つ通常のice-Ihやice-IX'からは直接遷移できず(何せ,ひとつながりのネットワークが,2つの互いに交差する別のネットワークに再構築されないといけない),そのため途中であちこちで水素結合が切れたようなice-XV'を経由する必要があるためにおこる変化だと考えられる.
全く同じような加圧を,同じ温度で,ただしもう少し素早く行うと,ice-Ihはいきなり構造が崩れHDA相となり,その後Ice-VII'相へと変化することが確認された.
これらの実験結果が示唆しているのは,これまで「ice-Ihを圧縮すると,別な安定構造な液状構造であるHDLを生じ,その分子運動がそのまま凍結することでHDA相になる」という結果を真っ向から否定する実験結果である.HDA相が生じるのはそれが安定相だからではなく,単に「本当ならice-VIII'相になりたいのに,そのためには水素結合ネットワークの大規模な再構築が必要になって,早い圧縮ではネットワーク再構築が間に合わないため別のごちゃごちゃな構造で固まってしまった」ということになるわけだ.

なんというか,これはまた盛大なちゃぶ台返しである.もしこれが事実だったとすると,水の二相モデルはその根拠としていた柱を失うこととなる.今後,水の二相モデルを支持するグループ,否定するグループそれぞれで活発な実験や計算が行われることとなるだろう.今後の展開に注目である.(2019.5.27)

 

211. 適用範囲の広いインフルエンザ治療薬を目指して:広域中和抗体を模した小分子薬の開発

"A small-molecule fusion inhibitor of influenza virus is orally active in mice"
M. J. P. van Dongen et al., Science, 363, eaar6221 (2019).

インフルエンザは身近な伝染病であるが,全世界では毎年平均して30-65万人の死者を生み出していると考えられている非常に強烈な病である.ワクチンなども製造されてはいるものの,インフルエンザウイルスは変異により免疫系を逃れやすく,その効果は完全ではない.
そんなインフルエンザの感染を考えるうえで重要となるのが,インフルエンザウイルスの表面に突き出しているヘマグルチニン(HA)とノイラミニダーゼ(NA)と呼ばれる二つの糖タンパク質である.前者はウイルスが宿主の細胞にとりつく&中に取り込まれるために働く糖タンパク質で,後者は逆に細胞から外に出ていくときに働く糖タンパク質であり,インフルエンザウイルスはこの二つの糖タンパク質の種類(型)により分類される.例えばHAが5型でNAが1型のウイルスはH5N1と呼ばれる,というようなものだ.
このHAとNA,どちらもインフルエンザウイルスの感染に重要な働きをしているため,どちらかの働きを阻害できる分子が見つかれば治療薬として利用できる.ところがこれら二つの糖タンパク質はその末端部分に非常に変異しやす部位を持ち,ここがさまざまな異なる型に変異することで免疫系をかいくぐったり,薬剤を無効化したりしていることが明らかとなっている.

というわけで,インフルエンザは治療薬や予防薬を作ることが難しく,しかもワクチンもなかなか効果を発揮しにくい(何せ,免疫系が認識しやすい末端部の構造がころころ変わる)ことが知られているわけだが,近年,さまざまな異なる型のインフルエンザウイルスに対する抗体を持つ人がいることが明らかとなった.研究により,この抗体は例えばHA(こいつは軸の上に丸い頭がついた,こけしのような構造だと思ってほしい)であればその先端ではなく,軸の部分をターゲットとした珍しい抗体であり,この軸部分は多くのインフルエンザウイルスで構造が保持されている=変異がほとんどないことが明らかとなってきている.
HAの軸部分は,感染において非常に重要な役割を果たす.細胞内に膜につつまれた小胞として取り込まれた際に,この軸部分がpHの変化をトリガーとして変形し,それにより自身の膜と細胞の膜を融合させ,ウイルスの中身を細胞内に放出する.この重要な役割を担っているため,この部分には変異が生じにくいのだ(生存にとって構造が重要な部位なので,下手な変異が起こるとそもそも感染できなくなる).したがって,この軸部分をターゲットとした薬剤が開発できれば,さまざまなタイプのインフルエンザに共通して使える治療薬となる可能性がある.

※このため,この「軸部分」を量産して体内に導入することで免疫系に覚えさせ,汎用のインフルエンザに対する免疫(広域中和抗体)を作らせよう,というような研究もある.
実際に見つかった汎用の抗体も,HAの軸部分のとりつきそのpH変化による変形を阻害することで機能を発揮できなくし,感染を防止しているとみられる.

さて,インフルエンザの治療薬を作ることを考えると,飲み薬タイプの薬剤が利便性が高い.ところが現在見つかっている広域中和抗体などはタンパク質ベースであり,そのまま服用しても消化されてしまい効果を発揮できない.
できれば,同様の働きをしつつ,消化器系から吸収される小分子の開発が望まれる.
今回報告された論文は,多数の分子からのスクリーニングにより,そのような小分子を見つけさらに改良した,というものになる.

著者らはまず,HAの軸部分をターゲットとした汎用の抗体として働くCR6261をスタートとした.この分子はHAの中でもグループ1と呼ばれるもの(H1,2,5,6,8,9,11,12,13,16,17,18)の多く(前述のうち,H11,17,18以外)のすべてのHAに結合できるタンパク質である.著者らはこのたんぱく質の構造をベースに,もうちょっと単純なタンパク質分子HB80.4を開発した(このタンパク質自体は薬剤として使うわけではなく,薬剤を見つけるために使用する).
標的であるインフルエンザウイルスのHAモデル分子としてH1の軸部分だけのタンパク質(以下,単にHAと呼ぶ)を量産,こいつと先ほどのHB80.4とにそれぞれペアとなる分子(受光体および蛍光体)をくっつける.これにより,HAとHB80.4が結合している状態で680 nmの光を当てると,HAにくっつけた部分の効果で活性酸素が発生,それが近傍のHB80.4にくっついた蛍光体を光らせることで615 nmの光が出てくる系を構築した.
この系を多量に作成し小分けにして,さまざまな異なる候補分子をそれぞれに加える.もし候補分子がHAの標的部位(=HB80.4がくっついている部位)に強くくっつく能力(これは,HAを無効化するうえで最低限必要な能力である)があれば,既に結合しているHB80.4を押しのけてでも吸着し,その結果HB80.4が放出されるはずである.すると,発光体がHB80.4とともに外れてしまうわけだから,励起光を当てても光らなくなる.
これを利用して,約50万種の化学種ライブラリーから,HAの標的部位に吸着できる小分子およそ9000が選別された.この9000種をさらに,本当に目的部位に吸着しているのかどうかのチェック(例えば,単にHB80.4を壊すような分子であっても蛍光は消えてしまう)により300に絞った.
こうして得られた300種の構造を検討すると,ベンジルピペラジン骨格を持つ分子が多く,その中でも特にJNJ7918と呼ばれる分子の活性が高いことが明らかとなった.これが目的通りHAの軸部分に結合しているのかを確かめるために,インフルエンザウイルスのHA(軸部分だけではなく,頭の部分もある)との結合をチェックし,HAの頭部分に結合する薬剤と競合しない(=JNJ7918が結合しているのはHAの頭部分ではなく,軸部分である)ことも確認した.

こうしてスタート物質であるJNJ7918が発見できたので,いよいよ薬剤開発である.この分子のさまざまなところにいろいろな置換基を導入したバリエーションを開発,その有効性をチェックしたところ,分子にエーテルやエステル部位等を導入することで,さらに優れた活性を示す分子であるJNJ6715を開発することができた.この分子は元となったJNJ7918の30〜80倍HAに結合しやすく,しばしば大流行を引き起こしているH1やH5型のウイルスに対する効果が30〜500倍ある分子であった.
ただ,このJNJ6715は
・体内環境に近いほぼ中性の水に溶けにくい
・肝臓などでの代謝が起きやすく,半減期が非常に短い
という弱点があり,そのままでは使用できない.そこで代謝を受けやすいメトキシ基のCH3をCF3に変えて分解されにくくしたり,一部の芳香環をNを入れたピリジン環に変えるなどの改良を行いJNJ8897を開発,その後さらに活性を高めるために一部の置換基を変更し,最終的に彼らがJNJ4796と呼ぶ分子を完成させた.
この分子は細胞毒性も低く,ある程度水に溶け,そこそこ代謝されにくかったので,これを用いて実際のインフルエンザウイルスへの効果を調べる実験を行っている.

まず行ったのが,マウスを用いた実験である.一部の遺伝子を削ることでA型インフルエンザに対する感受性が非常に高くなっているマウスがあるのだが,これをH1N1型のインフルエンザウイルスに感染させ,その餌に混ぜ込むことで10 mg/kgや50 mg/kgなどの量のJNJ8897またはJNJ4796を1日2回投与,その効果を調べた.
薬剤を未投与の対照群ではおよそ7〜11日程度でマウスは全滅したのだが,JNJ8897では10 mg/kgの投与で25%,50 mg/kgの投与で40%のマウスが21日目以降まで生存した.さらに改良したJNJ4796の投与では,10 mg/kg,50 mg/kgの投与でともに生存率100%と劇的な向上を見せており,このJNJ4796がH1N1ウイルスに対し大きな効果を発揮していることがわかる.
ヒトの気管支細胞を培養したものへの効果もチェックしており,培養中に各種濃度のJNJ4796を加えた際にインフルエンザウィルス由来のRNAがどのぐらい検出されなくなるかを見てやると,10 μMあたりから顕著にRNAの検出量が減少し(-90%減少),40〜50 μMあたり(?)で99.9%以上減少するなど,ウイルスを減らすことができている.
また,各種の型のHAとの結合のチェックでは,作成したJNJ4796はグループ1のうちH1,2,5,6,11,13,16に結合することが確認できており,そこそこ広範囲に効果があるのではないかと期待できる(なお,グループ1のうちH8,17,18は未チェック,H9と12は結合せず).

というわけで,将来の汎用性の高いインフルエンザ治療薬(につながるかもしれない薬剤)の研究であった.
こういった薬剤を作る際のスクリーニングや改良などに関しては全く知識がなかったので,なかなか面白く読めた.(2019.3.9)

 

210. 空間中にダイレクトに3次元物体を造形する:積層しない3Dプリンタ

"Volumetric additive manufacturing via tomographic reconstruction"
B. E. Kelly et al., Science, in press (2019).

Natureの記事経由.
3Dプリンタの開発と普及は多品種少量生産的な場における製造を大きく変えつつある.さてそんな3Dプリンタであるが,その仕組みは薄い物体を造形し,それが積みあがっていくことで三次元物体となる,という点はほぼ同一である.この手法はさまざまな三次元物体が作成可能である優れた手法ではあるのだが,積層の跡が残ってしまったり,物体の作成に非常に長い時間がかかる点,既に存在している物体の内部や周囲に物体を造形していくことが難しい点など,欠点も多い.
今回の論文で著者らが発表したのは,三次元の物体をダイレクトに三次元空間内に造形してしまおう,というものになる.

その威力は著者らが公開しているムービーを見ていただければ一目瞭然であり大変インパクトがあるので,まずは以下のムービーを見ていただきたい.動画はすべて論文のSupplementary Materialsにて公開されているものである.

Movie 1:溶液中に考える人を造形する
Movie 3:すでにあるドライバーの軸の周りに持ち手を造形
Movie 4:カゴに入ったボールをそのまま造形

さて,ではこの手法がどのように実現されているのかの説明に移ろう(気づく方は動画を見た段階でおおよそわかるだろうが).
著者らいわく,この手法はCTスキャンにインスパイアされたものとのことだ.
CTスキャンにおいては,さまざまな方向から物体に照射された放射線が体の各所で吸収され,その残りが検出器に届く.さまざまな方向から放射線を照射してその透過像をたくさん得ると,そこから逆算して元の物体のどの部分でどれだけ吸収が起こっていたかが計算できるというものだ(詳しくは「Radon変換」で調べていただけると,その具体的な計算法などの解説が見つかるはずだ).
このCTの逆過程を行っているのが今回の論文である.CTでは「立体的な物体による吸収が,無数の方向への投影像へと変換される」のに対し,今回の手法ではこれを逆転させ「無数の方向から見た投影像(に対応した強度の光)を各方向から照射すると,もともとの物体があった場所ほど多数の光が重なって,強い光を受ける」ということを利用する.
どうやっているのかを単純化して言えば,

1. 三次元物体をさまざまな方向から見た際の投影像を用意する.この時(その見ている方向に対し)「分厚い部分」ほど明るくなるようにする
2. 光が当たると硬化する粘性の高い樹脂を用意し,円筒形の管に入れる.
3. 円筒の表面で光が反射されないように,樹脂の入った円筒を屈折率がガラスに近い液体に丸ごと浸す.
4. 円筒をゆっくりと回転させながら,その時の角度に対応する投影像をプロジェクタで投影する.
5. すると,各方向からの光の積算量が多い部分=本来の三次元構造で固体になっている場所ほど多くの光を受け,硬化する.
6. その結果,もとの三次元構造を再現した立体が樹脂の液体中に自然に固まって生成する.

という流れになる.
現在のところ,分解能0.3 mm程度で三次元構造を作成可能であり,作成に要する時間は30秒〜2分程度とかなり速い.また,硬化する樹脂がほぼ同じ密度の硬化前の樹脂中に浮いた状態となることから,橋状の構造などでもサポート材は不要であり,複雑な立体形状が一気に造形される.また,造形に積層を使用していないため,積層由来の跡などもなく非常につるりとした表面を持つ三次元物体が作成できる.光硬化樹脂の種類を選べば,弾力のあるゲル(ゴム状の物体など)なども綺麗に造形することができる.

アイディア勝負という感じの研究ではあるが,見た目のインパクトは非常に大きい.どの程度まで発展できるのかはこれからの検討次第というところもあるが,うまくいくとかなり大きな影響もありそうな造形法であった.(2019.2.7)

 

209. 鍛えるほどに強くなるゲル

"Mechanoresponsive self-growing hydrogels inspired by nyscle training"
T. Matsuda, R. Kawakami, R. Namba, T. Nakajima and J. P. Gong, Science, 363, 504-508 (2019).

近年,生体の持つ機能や仕組みにインスピレーションを得たさまざまな新規材料の開発が進んでいる.生態系のもつ特徴の一つが,開放系=外界と物質のやり取りをする系であり,傷ついても外界から物質を取り込むことで修復し,さらにはもとよりも成長していくという点である.今回報告された新規ハイドロゲルは,そんな生物の持つ修復・成長プロセスを組み込んだものとなる.

ハイドロゲルとは水となじみやすい部位をもった高分子の網目が,多量の水分子を抱え込んだ状態で固体のようになっているものである.例えばコンニャク,プリン,豆腐などは身近なハイドロゲルであるが,これらの体積の大部分は水分子が占めており,スカスカの網目構造の高分子が水を引き付けることで全体として一つの物体として固まっている.こういったゲルは吸水素材として以外にも,その柔軟性や大きな伸び縮みが可能である点などからシーリング材や衝撃吸収材などとしても広く利用されている.
さてそんなハイドロゲルであるが,強い力で引っ張られたり押しつぶされたりすると,内部の高分子が断裂しその強度は大きく低下,破断の度合いによってはゲル全体が断裂する.近年では自己修復ゲルなども開発されているが,その仕組みは例えば切れた(ように見える)部分でジョイントが外れ,それが押し付けられると再度結合するなどであり,もともとの強度よりも強くなることはない.これに対し今回著者らが目指したのは筋肉のように「負荷によりダメージを受けても,周囲から素材の供給を受けることで初期状態以上に強いゲルへと成長する」というものだ.要するに「鍛えると強くなるゲル」ということになる.

この特異な構造を実現するために著者らが利用したのが,高分子が破断する際に生じるラジカルペアである.ゲルなどの高分子が負荷により破断する場合,高分子鎖内の結合が切れて二つのラジカルに開裂する場合が多い.この時ハイドロゲルが抱え込んでいる水溶液の中に高分子の原料であるモノマーおよび架橋構造を作ることのできる枝分かれ部位をもった分子が十分な量含まれていれば,高分子鎖の破断により生じたラジカルをきっかけとして連鎖的なラジカル重合が発生,新たな高分子鎖が形成される.つまり,
ゲルが引っ張られる → 内部で高分子鎖が破断 → ラジカルが生じる → 局所的に重合が起こる → 負荷がかかった場所では,もともとのゲル以上に多くの高分子鎖が生じてより丈夫なゲルに成長する
となるわけだ.
ただし,通常の「一種類の高分子だけからできているゲル」の場合,その高分子鎖の破断が始まるとゲル全体の破局的な破壊,要するにゲルの切断にまで至ってしまう危険がある.そこで著者らは以前に開発したダブルネットワークゲルと呼ぶ構造を利用した.これは要するに「短くて硬い高分子の網目」と「長くてあちこちがたるんでいる余裕のある柔らかい網目」の二種類のゲルが共存している物質である.強い力が加わると短くて硬い網目が破断するが,ゆったりとした柔らかい網目がゲル全体の構造を保つ,というものだ.これにより「力がかかると内部で高分子の破断が起きつつも,全体構造が保たれるゲル」が実現できる.

「鍛えると成長するゲル」のアイディアを実証するために,まず著者らはダブルネットワークゲルを引き延ばすことでラジカルが本当に発生するのかどうかをチェックしている.酸素が溶け込んでいる水中でラジカルが発生すると,化学反応により過酸化水素が生じる.あらかじめゲル内にFe2+を溶け込ませておくと,過酸化水素によりFe2+が酸化されFe3+となり,これを指示薬で検出することが可能である.この手法により,ゲルを引き延ばすと引き延ばされた部分のみに多くのラジカルが発生していることが確認できた.
ラジカルの発生が確認できたところで,いよいよ「鍛えると強くなるゲル」の実証だ.ゲル全体を「高分子の原料のモノマー&枝分かれ部となる分子が溶けている水」に浸し,この状態のまま負荷をかけて引き延ばす.すると,もともとはゲル中の高分子の比率が10%強だったものが,一度大きく引き伸ばすことで25%以上,つまり倍以上にまで上昇した.狙い通り,引っ張られる(=内部で一部の高分子鎖が断裂する)ことをトリガーに,ゲルの内部で重合反応が進行,ポリマーの量が増大したのだ.強度はどうなっているのかというと,もともと弾性率が0.07 MPa程度だったものが,引っ張ることにより0.7 MPa以上へと10倍以上の強化を見せた.
同様に,原料を含んだ水中で同じ距離を延ばす&縮めるという操作を繰り返すと,強度が次第に増して徐々に伸びにくくなる(鍛えるほどに丈夫になる)という挙動も確認できた.

また,この手法は「ゲルのうち,負荷がかかった一部にのみ別の機能を追加する」という目的にも使用できる.ゲル中に,ゲルの原料の代わりに何らかの機能を発揮する高分子の原料を入れておけば,
負荷がかかった部分の高分子鎖が断裂 → その部分にだけ機能性高分子が新たに発生
となり,局所的に追加の機能を付加できる.論文では,ハンコのような鋳型を押し付け,へこまされた部分にのみ「一定温度以上で水に溶解しなくなって析出する高分子」を追加することで,温度が上がるとその部分だけ色が変わる(微粒子が析出し濁る)であるとか,温度変化で親水性が変わる表面を特定の場所にだけ作り出す,といった例が実証されている.

というわけで,発想自体は面白い「鍛えるほどに強くなるゲル」なのであるが……では,どう使うかというとこれがなかなか難しい.単に強いゲルを作りたいだけなら最初から丈夫なゲルにすればよいだけであって(そのほうがよっぽど強度も高い),負荷がかかった部分のみ強くするというのはどういった目的で使うべきなのやら.しかも,成長させるには原料を含んだ溶液に漬け込んだ状態で負荷をかける必要があるわけで.
負荷のかかった部分にだけ機能を追加,という利用法に関しては,発想次第では化けるかもしれないが,こちらも現状なかなか思い浮かぶものはない.
というわけで,アイディアは面白いが使い道が謎の新技術であった.(2019.2.5)

 

208. 室温付近で自動で光透過性が変わるスマートウィンドウ

"Broadband Light Management with Thermochromic Hydrogel Microparticles for Smart Windows"
X. Li, C. Liu, S. Feng and N. X. Fang, Joule, 3, 290-302 (2019).

Natureの記事経由.なお,この論文はオープンアクセスであるので誰でも読むことが可能である.

様々な外的な刺激によって色調や透過性,反射率などを変えられる透明な素材は,スマートウィンドウなどとも呼ばれかなり昔から研究が行われている材料である.スマートウィンドウを使うことで,ブラインドやカーテン不要で透過率を自由に設定できる窓などが実現できるわけだが,各種用途の中でも注目されているのが気温に応じて自動的に熱の流入をコントロールできるような窓材だ.そういった材料を使用すると,夏の日中など温度が高い時には光(特に赤外線)の透過を抑えることで室内の気温上昇を抑制し,一方で冬などには透過率を上げ熱を室内に取り込むことが可能となり,空調に要している膨大なエネルギーの削減にも役立つと期待されている.
スマートウィンドウには,外部からの電源とコントロールを必要とするもの(例えば,バッテリー等からの電力を使い,電圧の印可で透過率をコントロールする,など)と,材料自体の温度や光による相転移を利用し自発的に透過率が変化するものに分けられるが,メンテナンスや電力消費もなく設置すればあとは放置でよい後者の利便性は格別である.

そんな「自動で透過率が変わるスマートウィンドウ」を志向した様々な材料が開発されているのだが,これまでに開発された材料は,
・透過率が変わる温度が高く(60〜70 ℃など),かなり高温にならないと切り替わらない
・透過率のOn/Off比が小さく,通常時から薄暗かったり,遮光時でもかなり光が透過したりする
など,欠点を持つものがほとんどである.大きなOn/Off比を出す材料としては温度による金属(高遮光性)-絶縁体(透過性)転移などを利用した系があるのだが,こういった系では転移温度のコントロールが難しく,任意の温度で作動するようなものは作りにくい(材料ごとに転移温度がかっちり決まってしまい,臨んだ温度に設定できない).複合材料などの固相-固相構造相転移を利用すると混ぜ具合によって転移温度はコントロールできるものの,透過率の差が小さくOn/Off比が低くなってしまう.
今回報告されたのは,こういった欠点を克服できるゲルを用いた材料となる.

今回の論文で使用されている材料は,ポリ(N-イソプロピルアクリルアミド)を主体とし,そこにイオン性のアミノエチルメタクリレートを混ぜたものとなる(両分子が分子レベルで結合したの共重合体).用いられているポリ(N-イソプロピルアクリルアミド)は面白い特性で知られており,冷水には溶けてゲルを作れるが熱水には溶けないという特性を示す.
この分子自体は親水性の部分と疎水性の部分を持っており,水分子が親水性部分に水素結合でくっつくことでトータルのエネルギーが低下する.このためポリ(N-イソプロピルアクリルアミド)は水に溶けたほうがエネルギーが下がる.その一方で,この分子の周囲にいる水分子は,疎水性部分とは水素結合できないため,水分子同士(と,ポリマーの一部の親水性部分)の間でしか水素結合が作れない.つまり,この高分子が水に溶けてしまうと,水分子が安定になれる「分子の向き」が大幅に制限される.これはエントロピー(=ランダムさ)の減少をもたらすため,ポリ(N-イソプロピルアクリルアミド)が水に溶け込むことは水分子のエントロピーを下げる効果がある.
さて,よく知られたように,自然現象は「エネルギー − エントロピー×温度」が小さくなる方向に進行する.低温ではエントロピーの寄与が小さくなるためエネルギーの下がる方向に進むのだが,高温ではエントロピー項の寄与が大きくなるため,多少エネルギー的に不利でもエントロピーが上がる方向に進みたがる.このため,ポリ(N-イソプロピルアクリルアミド)は低温ではエネルギーの下がる方向=水に溶ける方向に進み,高温ではエントロピーの上がる方向=水に溶けない方向へと系は進む.このためポリ(N-イソプロピルアクリルアミド)は「低温では水に溶けるが,高温では溶けきれなくて析出する」という挙動を示すわけだ.

さてこの挙動,著者らがどう利用したのかというと,窓ガラスを二重ガラスとし,その隙間(数百 μmぐらい)にポリ(N-イソプロピルアクリルアミド-アミノエチルメタクリレート)の粒子(が大量の水を吸ったもの)を詰め込んだのだ.
32 ℃以下の低温では,ポリマーは水に良く溶けるため水を含んだ透明で巨大なゲルへと膨潤し,互いがくっついて透明なゼリー状の物体となる.この状態では均一な媒体となるので,透明度は非常に高い(可視光〜2000 μm弱の近赤外の領域で,透過率70%以上程度.可視光に限れば85%程度の透過率).
ところが温度が32 ℃を超えるとポリマーは水に溶けられなくなり,無数の微粒子として析出する.すると「水の中に細かな粒がたくさん浮いたものを挟んだ二重ガラス」になるため,ガラスはまるで障子紙のように白く光を散乱し,透過率が可視領域で5%以下,近赤外でも10%以下と大幅に低下する.
結果として,このポリマー(と水)を挟み込んだガラスは「32 ℃以下の涼しい時には高い透過率で光を取り入れ,32 ℃以上の高温では白く濁って光をあまり通さなくなる」というスマートウィンドウとして働くわけだ.

この反応は単なるゲルの水への溶解・析出を繰り返すだけで特に反応を起こしているわけでもないので,繰り返し特性も良好である.とりあえず論文では1000回のOn-Offサイクルを行っているが,これといった劣化は見られていない.
(論文に図やムービーも用意されているので,興味のある方はご覧あれ)

スマートウィンドウ関連の技術はいくつか以前から見知ってはいたのだが,ポリマーの溶解-析出を使うというのはちょっと思いもよらない手法でなかなか興味深く読めた.製造コストも通常の二重窓とそれほど変わらないだろうし,結構安く使えそうではある.(2019.1.30)

 

207. 敵の敵は味方ならず:ファージ感染が誘発するメチシリン耐性黄色ブドウ球菌の免疫回避

"Methicillin-resistant Staphylococcus aureus alters cell wall glycosylation to evade immunity"
D. Gerlach et al., Nature, 563, 705-709 (2018).

黄色ブドウ球菌はそこら辺のどこにでもいるありふれた菌だがやや毒性が強く,免疫力が低下している場合などに重篤な症状を引き起こす事がある.そんな黄色ブドウ球菌が抗生物質が常用されている環境(例えば病院や畜舎)でメチシリンを含む各種抗生物質への耐性を獲得したものがメチシリン耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)である.こいつはしばしば院内感染を引き起こし,その一方で抗生物質類に対する耐性ゆえに有効な治療法がなかなか無いため深刻な問題となっている.
さてそんなMRSA(を含む黄色ブドウ球菌)であるが,ヒトなどの免疫系はその細胞壁の成分であるペプチドグリカンやその表面にあるタイコ酸に対する抗体をもち,それを使って免疫反応を起こしている.ところが,その効き具合などは個人差が大きく,「何が黄色ブドウ球菌への免疫系の効き具合に関わっているのか?」は重要な研究対象となっている.
今回の論文が報告しているのは,ヒト等の免疫系が主要なターゲットとしている黄色ブドウ球菌表面のタイコ酸の分子構造が,黄色ブドウ球菌のバクテリオファージ(ファージ)への感染により変化しており,その結果としてヒトの免疫系をすり抜けている,という発見である.

細菌がファージに感染すると細菌のDNAにファージのDNAが埋め込まれ,これが大量に発現する事でファージが量産された結果として細菌は死ぬ.しかしながら,ファージに感染した細菌が即座にファージの量産を始めるのかというとそうとは限らず,当面は「細菌のDNAの一部として埋め込まれた状態」(プロファージ)という休眠状態で宿主の中に潜伏し,何らかの刺激により増殖を開始する場合がある.
著者らが発見したのは,MRSAではある特定のプロファージを含んでいる(感染している)ものがそれなりに存在し,そいつらが免疫系の攻撃を受けにくい,という事である.結論に至るまではいろいろあるのだが,結局何がわかったのかを簡潔に紹介していこう.

黄色ブドウ球菌の細胞壁には,リビトールリン酸ポリマーがN-アセチルグルコサミンで修飾されたタイコ酸と呼ばれる物質が存在している.当然ながらこれを作る際にN-アセチルグルコサミン修飾を行う酵素であるtarSを黄色ブドウ球菌は持っている.さて,ファージ(黄色ブドウ球菌のDNAに埋め込まれたファージのDNA)も類似の酵素であるtarPをDNAにエンコードしており,ファージに感染した(ただし,プロファージ状態で発病していない)黄色ブドウ球菌においては,もともと自分が持っていたtarSだけではなく,感染により埋め込まれているファージのDNAも翻訳されtarPも合わせて生産される事となる.
このtarP,もともとあったtarSとよく似た働きをするのだが,リビトールリン酸のどの水酸基をN-アセチルグルコサミンで修飾するか,という部分が異なっており,その結果出来上がるタイコ酸はもともとの黄色ブドウ球菌が作る予定であったタイコ酸と微妙に異なってくる(修飾位置が一つずれる).
ヒトなどの免疫系においてはこのタイコ酸を標的とした抗体が多いのだが,ファージ由来のtarPで修飾されたタイコ酸は修飾位置が違う=分子の形が微妙に違うため,抗体が反応しなくなってしまう(別なものだと認識されてしまう).
この結果,ファージに感染している黄色ブドウ球菌はヒトの免疫系による検出をすり抜け,より活発に活動できるようになってしまうわけだ.
例えばマウスを使った実験では,tarSをノックアウトして(内包するファージ由来の)tarPのみでタイコ酸が作られた場合,免疫系の反応が1/7.5〜1/40にまで激減する事が示された.またヒト血清を用いた実験でも,ファージ由来のtarPを全く持たないピュアな黄色ブドウ球菌に対する免疫系の応答に比べると,ファージに感染している黄色ブドウ球菌はその2/3程度の免疫応答しか引き出さない.
要するに,黄色ブドウ球菌はファージに感染する事でヒト免疫を逃れやすくなる,というわけだ.現在MRSAの系統として培養されている黄色ブドウ球菌のいくつかからこのファージ感染が見つかっており,もしかするとヒトの免疫系に負けずに猛威を振るう理由の一端はこのファージ感染にあるのかも知れない.

ファージ自体はもちろんいずれは何らかの切っ掛けで黄色ブドウ球菌内で過剰に発現し宿主を死に至らせる,いわば黄色ブドウ球菌の「敵」なわけだが,時として手を結び協調して働く事でヒトの免疫系をすり抜け,繁栄を謳歌している事が示唆されたわけで,まさに敵(黄色ブドウ球菌)の敵(ファージ)はヒトの味方ならず,といったところか.
なお今回の論文ではtarSとtarPの構造がどのように異なっているのかなども調べられており,今後の研究しだいでは,tarPも標的とした新規の薬剤の開発などにも繋がる可能性が示唆されている.(2018.12.12)

 

206. ナノメカニカル共振器を用いた超大質量向け質量分析計

"Neutral mass spectrometry of virus capsids above 100 megadaltons with nanomechanical resonators"
S. Dominguez-Medina et al., Science, 362, 918-922 (2018).

今目の前にある試料にはどんな物質が,どれぐらいの比率で含まれているのかを素早く明らかにする事のできる質量分析計は,現代の化学分析において欠く事の出来ない分析機器である.
多くの質量分析計は対象を何らかの手法でイオン化し電場で加速,何らかの手法で質量ごとに分別し,それを何かの方法で検出する,という三段構えの構造となっている.
イオン化部分としては例えばレーザーで強引に電子を引き剥がしたり(レーザーイオン化),イオンを含む液滴に高い電圧をかけ微細な液滴に分断,イオンが大きな分子に付加するなどしてイオン化するエレクトロスプレーイオン化などさまざまな手法がある.
質量ごとに分別する手段としては四重極型の電極に交流電場をかけ,ぐるっとイオンが旋回する周期がちょうど電場の周期と一致する場合のみ安定的にらせん運動して輸送されるという四重極子型,一定の電圧で加速すると重い分子ほど遅くなり,検出器に届く時間が遅れる事を利用したTime-Of-Flight(TOF)型,電場や磁場の存在下での回転半径が速度差により異なる事を利用し,ちょうど検出器に入射する粒子の質量をスキャンする二重収束型など,これまたいくつも存在する.
最後の検出部分は,イオンの衝突を増倍管などで増幅し電流として読み出すものが多い.
これらイオン化法-分析法-検出法の組み合わせにより,実に多種多様な質量分析計が構築され,各手法ごとの特性を活かして精密分析だったり,より大質量の検出だったりを行っている.そんな質量分析計は,より大きな質量を検出できるようにしようと進歩を続けている.
今回報告されたのは,生物系の試料での使用を目指し,分子量が1億(100 MDa)を超えるような超巨大粒子の質量を測定できる質量分析計である.

著者らが用いたのは,MEMS的な構造の一種であるナノメカニカル共振器である.単純に言ってしまえば,極小の振動板のそばに電極を置き,共鳴周波数で振動電場をかける事で安定した振動を起こせる振動子だ.この振動の周期は当然ながら振動板のサイズや重さに依存する.このナノメカニカル共振器の上に重い粒子が乗れば,その影響で振動は遅くなるので,共鳴する交流の振動数も当然ながら小さくなる.この共鳴周波数をモニタする事で,振動子に乗っかったものの重さを求めてやろう,というのが今回の検出器の原理となる.
もっとも,ナノメカニカル共振器を使って質量分析をやろうというのは今回の著者らの専売特許というわけではなく,以前にもいくつかの報告が行われているものだ.ただ今回著者らが作った質量分析計は,対象をより効率的にナノメカニカル共振器に導くような構造となっており,より少量のサンプルで,再現性良く質量を測定できるところが異なっている.

著者らのシステムは,第一弾の噴霧部(サンプル溶液から微小な液滴を飛ばし,分析部まで運ぶ)として,超音波噴霧器(的なもの)やエレクトロスプレーイオン化を用いている.これらは比較的マイルドに巨大分子を飛ばす事が可能であり,生体分子などの分解も少ない.
試料溶液から飛び出た液滴は,レンズの役目を果たす多段の部屋へと導入される.なんと説明したら良いか難しいところだが,いくつかの節のある竹の筒のど真ん中に,貫通する穴を開けたような構造をしている.左端が噴霧された液滴(と気体)の入り口で,右側が真空になっている質量分析部だ.左の小さな穴から入った気体と液滴は,小部屋の中に拡散しながら広がるが,右側(真空側)に抜ける穴も小さいため,最終的にはまた収束しながら右の穴から抜けるような気流が発生する(こんな形→<>→).このとき,進行方向に対し横向きの運動(つまり,粒子の流れから外れて飛び去っていく方向の運動)は気流に巻き込まれる事で抑制されていき,多段の部屋を抜けるごとに次第に一直線のジェットへと変換される.これによって,噴霧部から飛んできた粒子を非常に高効率で検出器に送り出す事が可能となった.
検出部ではナノメカニカル共振器が5×4の20個並んでおり,独立に共鳴振動数が測定されている.何かが降ってくればそれによる振動数の変化を捉え,重さを算出する.粒子の付着による振動数の変化は,粒子が付いた位置とその重さの両方に依存するが,複数の振動モード(今回の場合は2つ)での振動数の変化を全て捉える事で,軸からの距離の違いによる影響と重さによる影響を分離,粒子の重さの情報を精度良く引き出す事ができる.

そんなわけで測定である.
著者らはまず,作成した質量分析計がきちんと動くのか確認するため,粒径のわかっているポリスチレン球を溶液に分散,これを噴霧することで飛ばし,質量分析を行った.飛ばしたポリスチレン球は直径およそ45±3 nm,重さは幅があるが分布の中心が28-36 MDaあたりになると予想されるサンプルだ.なお,溶液中での濃度はおよそ1.7×107粒子/μl(28.2 pM)程度だそうだ.
作成した質量分析計で,2 μl/minの速度で128分間噴霧を続けたところ,検出部でおよそ毎分0.3-1.8ナノ粒子程度,計173イベントを検出した.測定された質量分布の中心は29.5 MDaと粒径から予想される値と良い一致を示し,本質量分析計がきちんと質量を分析できる事を確認できた.見積もり誤差はおよそ1-2%程度と推測されており,今回の測定対象からすると0.3-0.6 MDa程度に相当すると見られる.
この装置の最大の特徴は,前述の流体力学を利用した気体を収束するレンズ構造による効率の高さにある.今回の測定中に噴霧された溶液中に存在していたナノ粒子の数が4.4×109個に対し,検出されたナノ粒子が173と,測定効率はおよそ4×10-8程度になる.数字だけ見ると非常に低そうに思えるが,これまでの類似の装置(ただし,ガスの収束ではなく,通常の質量分析計のようにイオンを電場で収束するタイプ)に比べると6桁程度改善されており,実用的な測定時間(今回の例だと128分)で測定が行える原因となっている.
※著者らも述べているが,単に捕捉効率だけで行けばもっと高い報告例もあるが,それらでは超大面積の検出器群で強引に測定するものであり,コストが非常に高い.

実証試験に成功したので,いよいよ実際の応用が望める生命科学分野のサンプルを用いてのテストに入ろう.
著者らがサンプルに選んだのが,非常にメカニカルな外観からファンも多いバクテリオファージで,こいつの正二十面体型の頭部(カプシド部分)を測定対象に選んでいる.
測定したのは内部を空っぽにしたカプシドと,中に2本鎖DNAが格納された完成形のカプシドの二種類である(多分,脚の部分はなく,カプシド部分のみ).
これらのカプシドの直径は90 nm程度.バクテリオファージのカプシドは決まったタンパク質が決まった個数組み合わさってできているので,これだけ大きな構造体にもかかわらず分子量は厳密に決まっており,空のカプシドで26,018,181(約26 MDa),中にDNAを含んだ状態で105,386,202(約105 MDa)となる.
測定においては,最初は音波での霧化を試みたようだがカプシドが凝集して塊になってしまったため,エレクトロスプレー方式に変更して測定を行っている.

測定結果を見てみよう.空のカプシドは,363イベント測定し,分布の中央は27.2 MDa,最頻値(多分0.5 MDa刻みで分類)は26.0 MDaであり,実際の値である26 MDaと良い一致を示した.また,もう一つの分布の山が33.4 MDa付近(本来の値+7.4 MDa付近)に見られたが,これはカプシドの原料タンパクを精製する過程で残ってしまったDNA断片が内包されたからではないか,と述べている.
中身の詰まったカプシドの方の測定値は,分布の中央が108.4,最頻値が107.5 MDaと,こちらも実際の値である105 MDaとそこそこ良い一致を示したものの,空のカプシドに比べるとやや重いほうにズレている事がわかる.ただ,中身にDNAを含んだカプシドは,調整溶液中の塩類を内部に取り込んだままになりやすい事が知られており,この影響ではないかと著者らは述べている.

まあ何にしろ,100 MDa(分子量1億)以上ぐらいの値を測定できる質量分析計がそれなりに仕事を果たせそうなのは確かである.
ただこれ,何に使ったら良いんですかね.凄いとは思うんですが,生化学分野とかはやった事がないんで,いまいちイメージが掴めないというか…….
近所の研究室がタンパク質とDNAとの複合体のようなものを作って調べているんですが,そういうものの測定には使えるのかも.現在はゲル使った電気泳動で分けて,同時に流すマーカーとの比較から重さを推測してますが,重さを直接測っているわけじゃないので.そういうのが確実に分析できるようになると面白い……のかも?(2018.11.24)

 

205. センチメートルサイズの単層二次元薄膜の安定した作成法

"Controlled crack propagation for atomic precision handling of wafer-scale two-dimensional materials"
J. Shim et al., Science, 362, 665-670 (2018).

もともと二次元性の強い物質,つまり面内方向の結合が強い一方で面間方向の結合(相互作用)が弱い物質は,スコッチテープなどの粘着素材を両面に貼り付け剥がすだけで容易に剥離し,非常に薄い薄膜とする事が可能である.この"魔法の道具"スコッチテープを用いた単層グラフェンの簡便な作成法が報告されて以来,原子・分子レベルの厚みの単層ナノシートの作成や物性研究は大きく発展した.
しかしながら,この剥離法は単層の物質を選択的に作る事が難しく,単層〜数層のさまざまな厚みのサンプルがランダムに出来てしまうという欠点が存在する.そのため研究においては,無数のサンプルを同時に作成し厚みを測定,偶然単層だったものを選択して測定するなどの手間がかかっている.また,剥離の際に薄膜が折れ曲がったり波打ったりして特性が変わってしまう,という事もしばしば起こる.さらに,単層薄膜が作製できても,きっちりと単層になっている部分はマイクロメートルサイズで,それ以外の領域では複数枚が重なってしまい厚くなっている,という事も多い.
今回報告されたのは,このような欠点を回避し,ほぼ確実に,センチメートルサイズ以上の非常に大きな単層薄膜を作製できるという手法である.

今回の実験で用いられているのは,WS2,WSe2,MoS2,MoSe2といった遷移金属カルコゲナイドと,グラファイト類似の構造をもつ六方晶窒化ホウ素(h-BN)である.これらは成膜性が良くウェハーサイズ(数〜数十 cm)の綺麗な単結晶試料を作成する事が可能で,しかも相間相互作用が弱いため容易に剥離できることから単層薄膜の例として良く研究されている物質だ.
今回の手法では,サファイア基板やSiO2/Si基板の上にこれらの層状化合物を数〜数十 nm程度の厚みにCVD法によりエピタキシャル成長させる.最上段のみは無数の結晶核から薄膜が成長している途中のため無数の単層薄膜断片がのった形となるが,それ以下の層では非常に均一で基板全体に広がった単結晶が生成する事が知られている.
作成した積層膜の上から,さらにNiを蒸着する.その後,Ni膜の上から熱剥離テープ(粘着性だが,加熱すると粘着性を失い剥がれる)を貼り付け,力を良く加減しながらゆっくりと引き剥がす.相互作用の強さとしては,

粘着テープとNi,Niと層状物質 > 層状物質の層間 > 層状物質とサファイア(またはSiO22)基板

となっているので,この段階では非常に綺麗に成膜用基板から厚く成膜した層状物質が剥がれる事となる.
その後,下面(もともと成膜用基板が付いていた面)にもNiを蒸着する.そして下面のNi側にも熱剥離テープを貼り付け,うまく加減した力で上側のテープをゆっくりと引き上げ,剥がす.これだけで最下面の「単層のみ」を綺麗に剥離する事が可能となる.

ここでのポイントは,

1. Niと層状物質との相互作用が,層状物質の層間での相互作用よりも非常に強いこと
 つまり,力を加減する事でNi-層状物質間が結びついたまま,層状物質内で剥離を引き起こせること

および

2. 作成した膜のエッジ部分は欠陥が多く,容易にクラックが入る事 の2点である.
1に関しては説明はいらないと思うが,今回の研究で重要となるのは2の方だ.ゆっくりと端からテープを引き剥がしていくと,作成した薄膜のエッジ部分が割れ,クラックが生成する.このクラックは,「上側のテープを曲げて引っ張る」という過程での力のかかり方が原因となり,下方へと成長する(以下のようなプロセス).

↑テープごと引き上げ
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□(Ni層)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■(層状物質最上層)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■(層状物質2層目)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■(層状物質3層目)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■(層状物質4層目)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■(層状物質最下層)
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□(Ni層)


■□
 ■□□□□□□□□□□□□□□□□□□(Ni層)
 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■(層状物質最上層)
■×■■■■■■■■■■■■■■■■■■(層状物質2層目)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■(層状物質3層目)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■(層状物質4層目)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■(層状物質最下層)
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□(Ni層)
※×印はクラックを表す

□□
■■□
 ■■□□□□□□□□□□□□□□□□□(Ni層)
  ■■■■■■■■■■■■■■■■■■(層状物質最上層)
■×■■■■■■■■■■■■■■■■■■(層状物質2層目)
■■×■■■■■■■■■■■■■■■■■(層状物質3層目)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■(層状物質4層目)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■(層状物質最下層)
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□(Ni層)

□□□□
■■■■□
 ■■■■□□□□□□□□□□□□□□□(Ni層)
  ■■■■■■■■■■■■■■■■■(層状物質最上層)
■×■■■■■■■■■■■■■■■■■■(層状物質2層目)
■■× ■■■■■■■■■■■■■■■■(層状物質3層目)
■■×  ■■■■■■■■■■■■■■■(層状物質4層目)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■(層状物質最下層)
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□(Ni層)

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□(Ni層)
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■(層状物質最上層)
 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■(層状物質2層目)
  ■■■■■■■■■■■■■■■■■■(層状物質3層目)
  ■■■■■■■■■■■■■■■■■■(層状物質4層目)
 
■×
■■×
■■×
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■(転写された単層薄膜)
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□(Ni層)

このように,引き上げ方に気をつけるだけで,非常に綺麗に単層薄膜が転写される.
(エッジの部分でクラックの成長に要した分だけごくわずかに複数層の部分もできるが,薄膜のサイズ=数 cmのサイズから見れば無視できる程度の領域となる)
また,もともとの多層膜がなくなるまでこの作業は繰り返せるため,一度作った多層膜から,安定して数枚程度の単層膜を剥離する事が可能である.

剥離された薄膜は,さらに別の基板に(Niを上にして)載せたあと,110 ℃に加熱して熱剥離テープを剥がし,さらに塩化鉄(III)を用いたエッチングで表面のNiを溶かす事で「基盤上にのった単層薄膜」にすることができる.さらに,この手法を繰り返す事で
・任意の枚数が重なった多層膜
・複数の異なる二次元物質を積層した多層膜
とすることも可能だ.
著者らはこの手法を用い,直径5 cmの円形でほとんど欠陥のない単結晶単層膜を作成して見せている.

本手法で作られる単層膜は非常に質が良い事が特徴で,例えば多層膜を作った段階でのキャリア易動度が106.8 cm2/V・sだったのに対し,単層膜へと剥離したあとの易動度が89.5 cm2/V・sとほぼ同等の値が保たれており,単層剥離による劣化がほとんど無いこと確認されている.また,単層の折れ曲りや浪打などもなく,形状的にも非常に綺麗な単層膜となっている.

続いて著者らはデモンストレーションとして,Siウェハー上の1 cm四方の領域に10×10の計100個のFETを作成し,その特性を計測している.構造としては,Siウェハーの表面を酸化しSiO2の絶縁層を作成,その上に絶縁性のh-BNを2層載せ,その上にMoS2を1層載せる.エッチングでMoS2を削り,ソース,ドレインを作ったあとに絶縁層としてアルミナを蒸着,最後にゲート電極を載せる事でFETとしている.
作成したFETのon/off比は108となかなかの特性である.また,基板との間にh-BNを挟む事で素子のばらつきが非常に少なくなり,妙なヒステリシス(高いゲート電圧をかけon状態にすると,多少ゲート電圧を減らしてもon状態が維持されてしまう)も起こらない事が確認された.
100個作成した素子間のばらつきとしては9.6%程度であったが,これは同様の構造をwetプロセス(溶液を用いたプロセス)で作成した場合のばらつき26%に比べ明らかに低く,本手法によりさらに安定した素子が構築できる事を示唆している.(2018.11.13)

 

204. 【消化不良】量子論の巨視的な系への単純な拡張は不合理な結果を引き起こす

"Quantum theory cannot consistently describe the use of itself"
D. Frauchiger and R. Renner, Nature Commun., 9, 3711_1-10 (2018).

※本論文は読んで一応の議論の流れも把握はできたのだが,完全に理解しているとは言いがたいもやもやした部分もあり,やや消化不良気味.

量子論における大きな問題の一つと言えば観測問題が挙げられるだろう.微視的な物体は量子論によってよく記述されるが,その挙動は確率論的であり,観測されていないときには確固とした実体を持たないように思える.一方で,我々の目にする巨視的な世界は決定論的に動いており,両者の間には現時点ではうまく埋めきれないギャップが存在している."
微視的な量子論の世界では,「観測」により状態を確定する事ができる.これは「複数の状態の『和』で書き表されていた状態が,そのうちの一つの状態に収束する(波束の収縮)」と言うものなのだが,観測とはそもそも何なのか,そしてなぜ混合状態から一つの状態へと収縮するのか,という点に関しては量子論は何も答えてくれていない."
さてここで,我々が常日頃目撃している巨視的な系を考えてみよう.量子論がどこまでも正しいのなら,巨視的な系も波動関数の(膨大な数の)積で書き表せるはずであり,という事は測定を行う装置や我々自身も波動関数で表されることになる.であるならば,我々も複数の状態の重ね合わせなのだろうか?

この「量子力学の根本に横たわる謎」をよりわかりやすい形で提示するのが思考実験である.例えば有名どころで言えば「生きた状態と死んだ状態が重なり合い同時に存在する」『シュレディンガーの猫』であるとか,シュレディンガーの猫の生死を確定させる観測者自身をさらに一回り大きな箱に入れる事で「観測者自身が複数の状態をとっている」とみなせる『ウィグナーの友人』などが提案されてきた."
これらの思考実験では,我々が確固たる実在だと思っている猫や人間自体が,状態の重ね合わせとして表されなければならない不合理な状況を作り出す事で,量子力学が抱える不可思議な点を浮き彫りにしている.

※なお,これらの思考実験で「猫」だの「人」だのが出てくるが,これは量子論の困惑するような結果を強調するために用いられているだけで,実際の実験においては単なる分子であったり観測装置であったりが「猫」や「人」の代わりに用いられる.そのため「いや,人とか猫だと○○という問題があるので云々」というのは思考実験に対する反論にはならない.

ただまあ言ってしまえば,これら古典的な思考実験は,「そう,その通りなんです.実は我々も(知覚はできないけど)複数の状態が重なって存在しているんですよ」と常識をぶん投げて認めてしまえばパラドクスにはならない,というものであった."
しかし今回報告されたこの論文は,よりクリティカルに観測問題を我々に突きつけてくる(ように思える).

論文が提案している思考実験は,『ウィグナーの友人』を二重化したようなものとなっている."
セットアップとして,二つの外界から十分隔離された実験室L1とL2を用意し,その中に観測者(いわゆるところの「ウィグナーの友人」の役割)であるF1とF22をそれぞれ入れておく.さらに外界には「実験室自体を観測する観測者」(いわゆるところの「ウィグナー」の役割)としてW1とW2を配置する."
最初にL1内のF1が,2状態をとれる観測対象(スピンの上下,量子論的なコインの裏表など.要するに「猫」の役目)を観測し,その結果に応じてスピンの向きを変えたものをL2に送る.例えばコインが表なら|↓>のスピンの電子を,コインが裏なら|→>=√2(|↓>+|↑>)を送る.コインが裏だった場合は,スピンの向きが上向きと下向きが混合した状態の電子を送るわけだ.電子を送られたF2は,この電子のスピンが|↑>なのか|↓>なのかを測定する.F1が送った電子が|↓>ならそのまま|↓>が確定するし,送られた電子が√2(|↓>+|↑>)だったのならそれぞれ1/2の確率で|↑>または|↓>が確定する.

でもってこれらF1とF2の居る実験室自体(L1とL2)を,外部に居るW1とW2が観測する.ただしこの観測,非常に変な観測となる.W1はL1に対し,√2(|コインが表>−|コインが裏>)という基底での観測を行う.つまり,L1というラボ内の観測者が「コインの表を観測 or コインの裏を観測した」という観測ではなく,「(コインの表を観測した状態 − コインの裏を観測した状態) or (コインの表を観測した状態 + コインの裏を観測した状態)」のどちらなんだ?という変な観測を行う."
これは日常的な感覚では非常にけったいな観測に思えるが,原子・電子のレベルでは実験として良く行われている観測である.例えば|↑>または|↓>のどちらかになっている電子のスピンに対し,√2(|↓>+|↑>) or √2(|↓>−|↑>)のどちらなのか?という観測を行って,状態をこれら二つのどちらかに強引にねじ曲げて落とし込む,という事も可能である."
でまあもう一つのラボの外側に居るW2も同様の観測をL2に対して行い,√2(|↓>−|↑>) or √2(|↓>+|↑>)という観測を行う.

でまあここからが消化不良な部分なのだが,登場する4人の観測者F1,F2,W1,W2それぞれはそれぞれの結果を自身の持つ量子力学の知識を使って正当に解釈できたとすると,実は同じ実験から2つの矛盾する結論を導けてしまうよ,というのが本論文の結論……らしい(まだ完全に追い切れていないので,興味があって量子論の素養のある方は自分で読んでみていただきたい.オープンアクセスの論文なので,誰でもアクセス可能である)."

この思考実験のキーポイントをまとめたものが論文中に載っているのだが,ここでは3つの大きな仮定が用いられている.

(1) 量子論は巨視的な系においても成立している."
(2) 起こったことに対する,異なる人々の観測結果からの複数の論理的な推測は矛盾しない."
(3) ある任意の基底に対し,A or not A 型の測定が行える.

そして思考実験の結論として,「これら三つの仮定を同時に満たす事は不可能である」という事が得られたというわけだ."
そのため,我々は次のうち少なくとも一つは受け入れなくてはならない.

(a) 量子論はそのまま巨視的な系に対しては成り立たない(謎の「観測」などの効果により,巨視的な世界は量子論的な効果が消えてしまう)"
(b) 実はさまざまな現象は,観測する人によって異なる結果を与える事がある(誰から見ても世界は同じとは限らない)"
(c) ある基底に対し,二択を与える測定が存在し得ない場合がある(「A」でもなく「Aじゃない」でもない場合が存在する)

(a)を認めるのなら,巨視的な系では何が働いているのか?が問題になるだろう.自由度が増える事で自発的に混合状態が崩壊して波束の収縮(に近いものが起こる)という研究はあるが,現時点ではどうやっても有限の混合が残ってきて,完全な波束の収縮には至っていない.ただ,巨視的な系と量子的な系で驚くほど振る舞いが異なるのは事実なので,量子論を進化させたより完全な理論では,巨視的な系では量子的な効果が破壊される何らかの機構が存在する,という可能性は否定できない.

(b)を認めるのはなかなかチャレンジングな気もするが,果たしてどうなのだろうか.同一の現象に対し理論的に予測されることが互いに矛盾する,という事はあり得るのだろうか?それが許される理論体系において,現実とは何なのだろうか?

(c)もまたありそうではある.シュレディンガーの猫の時代から「そもそも『猫が生きている状態』と『猫が死んでいる状態』は固有状態ではなく,両者の重ね合わせを考える事自体がおかしいのではないか」という話はある.ただあくまで思考実験でインパクトを上げるための『猫』なので,本当にそういう考え方で今回の理屈が生み出す矛盾を否定しきれるのかはちょっとすぐにはわからない.

まだ消化不良で理解し切れていない部分も多いが,量子論の根本に切り込むようなこういった仕事は面白いSFを読むかのような楽しさがあってなかなかわくわくするものである.(2018.10.6)

 

203. 鋳型を用いたサブナノメートル合金ナノ粒子の精密合成

"Atom-hybridization for synthesis of polymetallic clusters"
T. Tsukamoto, T. Kambe, A. Nakao, T. Imaoka and K. Yamamoto, Nature Coomun., 9, 3873_1-7 (2018).

金属ナノ粒子は触媒としての活性が高いことから,さまざまな工業的な用途で利用されている.なかでも,複数種類の金属元素を組み合わせることで合金化したナノ粒子は,触媒粒子の電子状態や各種分子との親和性をコントロールできるために特に重要な研究対象である.またナノサイズの領域では通常では合金化できないような原子の組み合わせ(つまり,単に混ぜると自発的に分離して二種類の金属の混合物になる)も容易に合金化する事が知られており,これまでにない触媒が実現できる可能性もある.
そんなナノ合金であるが,サイズや組成を厳密に制御した精密・大量合成法が無く,実用化の際の問題の一つとなっている.
今回紹介する論文は,デンドリマーと呼ばれる樹状高分子を用いてサイズや組成が精密に制御された合金ナノ粒子(というか,金属原子クラスターというか)を合成した,というものになる.

デンドリマー(dendrimer)は,その名が樹木(dendron)から来ている事からも明らかなように,樹木のように枝分かれしながら伸びた高分子である.例えば中心に炭素原子を置くと,そこから4本の結合が伸びる.これら四本の「枝」の先に,Y字型に分岐する分子を次々に繋いでいけば,先端が4本 → 8本 → 16本 → 32本……と,枝分かれしながら樹状に広がった高分子が得られる.枝分かれを何段伸ばすのかをきっちり制御できるため,構造もサイズも揃った高分子が得られる事,また先に行くほど枝の本数が増え混み合うことで球殻状になり,中心部がスカスカなカプセルとして反応場などに利用できる事などが知られている.
今回の研究が行われた東工大の山元・今岡研は,このデンドリマーを反応場(鋳型)として使う事で原子数が制御されたサブナノメートルサイズの金属ナノ粒子の作成法を開発している研究室である.使用するデンドリマーとして窒素原子を含むものを用いると,その部分を使って金属イオンに配位する事ができる.デンドリマーの中心部分ほど配位能が高く,外側に行くほど配位能が低くなるので,溶液中に入れる金属イオンの量を調節する事で,例えば中心から3世代目(=中心から見て3回目の枝分かれのところ)までの窒素(1世代目4個,2世代目8個,3世代目16個)に配位させれば金属原子を28個球殻構造内に取り込んだデンドリマーができるし,2世代目のところまでしか配位しないようにすれば12個の金属イオンを取り込んだデンドリマーができる.こういったものを作成しておいて,強力な還元剤を使って金属イオンを還元すれば,サイズどころか含まれる金属原子の数まで統一された金属ナノ粒子が作成できるわけだ.

今回の論文では,さらにこの考えを進めて最大で5種類までの金属原子を集積,組成とサイズが厳密に決まった合金ナノ粒子を作成する事に成功した.
まずは用いた分子を見ていこう.オープンアクセスの論文なので,論文本体Figure 2を見ていただきたい.中心の炭素原子から4方向に腕が伸び,それぞれが途中で窒素原子を挟みながら二つに分岐していくデンドリマーである.ただちょっとだけ工夫がしてあって,中心近くのベンゼン環4つのうち一つだけが窒素を含むピリジン環に変更されている.このピリジン環が一番金属イオンを配位させやすい事に加え,ここから伸びた枝は同等の世代の他の枝に比べわずかながら金属イオンに配位しやすい,という差が生じてくる.
単に同じ枝を四方向に伸ばしただけだと世代の同じ窒素原子は全て同等の配位能をもつが,今回の場合はこの改変により配位能がピリジン環(1箇所)>ピリジン環の先の第1世代の窒素(1箇所)>その他の第1世代の窒素(3箇所)>ピリジン環の先の第2世代の窒素(2個)>その他の第2世代の窒素(6箇所)>ピリジン環の先の第3世代の窒素(4個)>その他の第3世代の窒素(12箇所)……と,金属イオンへのくっつきやすさの異なる多数のサイトが存在する事になるわけだ.
要するに,この分子を含む溶液中に金属イオンを入れると,

1番目にくっつきやすいサイト(1箇所)
2番目にくっつきやすいサイト(1箇所)
3番目にくっつきやすいサイト(3箇所)
4版目にくっつきやすいサイト(2箇所)
5番目にくっつきやすいサイト(6箇所)
(以下続く)

という順序で金属イオンがくっついていく.従って,デンドリマーの分子数(1当量)に対し,

1当量の金属イオンAを加える
1当量の金属イオンBを加える
3当量の金属イオンCを加える
2当量の金属イオンDを加える
6当量の金属イオンEを加える

とやって,その後強力な還元剤で還元するとA1B1C3D2E6という組成を持った金属ナノ粒子が選択的に得られる.もちろん,同じ金属イオンを続けて入れても良く,例えば

2当量の金属イオンAを加える(1番目と2番目のサイトが埋まる)
5当量の金属イオンBを加える(3番目と4番目のサイトが埋まる)
6当量の金属イオンCを加える(5番目のサイトが埋まる)

とやれば,A2B5C6という金属ナノ粒子が得られる.

本当にこんなふうに順番に配位サイトが埋まっていくのか?という事を著者らはまず可視紫外吸収で確かめ,0〜1当量(1番目のサイトが埋まる)まで,1〜2当量(2番目のサイトまで埋まる)まで,2〜5当量(3番目のサイトが埋まる)まで,5〜7当量まで(4番目のサイトが埋まる),7〜13当量まで(5番目のサイトが埋まる)で,それぞれ違う金属イオンが綺麗に配位する事を確認している(ただし,配位結合が強い金属をあとから入れると,既存のイオンを押しのけて自分が内側に入り込んで入れ替わる事もある).

この方法で,著者らは多種多様な組成の金属イオンをきちんと制御された数取り込んだデンドリマーを多数作成した(Figure 3).続いてこれらのデンドリマーを強力な還元剤である水素化ホウ素ナトリウムで還元する.得られた金属ナノ粒子を電顕で確認すると,そのほとんどが1 nm弱の直径をもつサブナノ粒子であった.このサイズは,5番目のサイトまでの金属原子(13個)が還元されそのままナノ粒子化した場合に予測される直径と一致している.得られたナノ粒子のサイズは非常に均一で,このことからも余計な融合や組成の変化は生じず,デンドリマーに取り込まれた金属イオンが,そのままの個数・組成で還元されナノ粒子化したと考えて矛盾しない.
電顕を使ったEDSによる元素分析では,ある程度の範囲に含まれるナノ粒子の平均組成が狙った個数比と一致する事も示された. ※EDSはあまり細かい範囲での分析ができないので,今回のようなサブナノメートルサイズの場合はある程度の個数をまとめて測る事しかできない.

XPSによる電子状態の分析では,金属元素の内殻電子のエネルギーが,それぞれの金属元素の単体のナノ粒子などと比べて多少シフトしている事が確認された.これはナノ粒子中で各元素の軌道が混ざり合っている,つまり異なる金属元素同士が分離するのではなく,同一粒子内で合金化している事を示唆している.
また作成されたナノ粒子は同等サイズの単一元素からなるナノ粒子とは異なる光吸収を示し,こちらの結果も合金かを支持している.この吸収は,DFT計算による電子状態計算とも整合している.

という事で,原子数レベルで組成をきちっと決めたナノ合金の作成法であった.
非常にクレバーな手法で,結果も綺麗に出ている美しい仕事である.(2018.9.29)

 

202. ナノスケールの物体は,放射による熱伝導において黒体限界を大きく超える効率を実現できる

"Hundred-fold enhancement in far-field radiative heat transfer over the blackbody limit"
D. Thompson et al., Nature, 561, 216-221 (2018).

放射による熱の放出や吸収は,工業的にも理学的にも重要な過程である.例えばさまざまな電子機器のパッシブな冷却であるとか,宇宙における星間ガスの加熱・冷却などの過程は放射に大きく依存している.
この放射の理論としては,100年以上前に導かれたプランクの式が有名であろう.そこでは簡単な仮定から,ある温度の黒体,つまりあらゆる波長の光を吸収・放出できる理想的な物体からの放射の程度が導かれている.通常の物体は黒体のように全ての波長の光を放出できるわけではないため,放射の量は黒体を下回る.つまり,通常の熱放射においては黒体の放射率が最も高い限界を定めていると言える.この限界を超えて,より高効率に熱を逃がすことは出来ないのだろうか?

実は,黒体放射の定式化にあたっては,計算を簡単にするためいくつかの仮定が用いられている.その一つは「遠隔場のみを取り扱う」というものだ.光源から出る光には,遠くまで伝播していく遠隔場(いわゆる通常の光)とは別に,物体表面(波長程度のサイズ)にまとわりつくような近接場光というものが同時に存在する.非常に近接した距離に熱源(放射源)と受光体を置くと,この近接場光も介することで通常の放射以上に熱を伝達でき,黒体放射を大きく超える熱伝導を成し遂げられることが近年実証されている.
もう一つの別の仮定は,放射源が波長に比べ十分大きいマクロな物体である,というものだ.つまり,ナノサイズの物体の場合はプランクの黒体放射の式は成り立たず,より大きな放射が実現する可能性は排除できない.しかしながらこれまでの研究では,球状のナノ粒子や円柱状のナノワイヤーでは,黒体を超えるような放射は実現出来ないことが報告されている.
今回著者らが報告したのは,厚みが波長より十分小さいナノシートを用いると,黒体放射の式より2桁も大きな熱伝達が可能であった,という実験結果およびその計算による検証である.

著者らは測定のためにまずサンプルを作成した.サンプルは横80 μm,縦 60 μm,厚さ270 nm(最も薄いサンプルの場合.著者らは厚さ270 nm〜11 μmの各種サンプルを作成し比較している)の薄膜状の窒化ケイ素(SiN)で,非常に細い4本の梁(幅2 μm,長さ400 μm)によって宙に浮いたような構造となっている.この薄膜が2枚並んでおり,その間は20 μmである.大まかにいって下図のような構造だ.

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※実際の図(を着色したもの)は,Extended Data Figure 5を参照していただきたい.

なお,この宙に浮いたような薄膜の作り方は,厚いSiの板の表面にSiNをCVDで蒸着し,パターンを作ってSiNをエッチング,その後下からサンプルの部分のみSiをアルカリで溶かすことで作成されている.
さらにこの梁の部分にはPtが蒸着され,さらに薄膜部分にもPtのジグザグパターンがみっちりと描かれている.片方の薄膜上のPtパターンに外部電源から通電することでヒーターとし,二つの薄膜上のPtパターンをそのまま白金抵抗温度計として使うことで温度を測定する.これにより,加えた熱量とその時の温度,となりの薄膜が放射を受けてどの程度温度が上昇したか,をそれぞれ測定する事が可能となる.なお,測定は対流などの影響を避けるために真空条件下(10-6 Torr程度)で行っている.

さてその実験結果である.「プランクの式で計算される黒体での放射の何倍がとなりの薄膜に伝わったか」という値で見てやると,薄膜の厚さが薄ければ薄いほど黒体を遥かに超える輻射熱伝導が実現しており,270 nm厚の場合では黒体の100倍以上(目分量で200倍ちょっとぐらいだろうか?)の熱が隣接する薄膜に伝わっていた.この異常な効率の良さは厚みが増えるに従って単調に減少し,厚みが11 μmのサンプルでは黒体とほぼ同程度の放射伝導のみが確認された.要するに,薄膜が薄くなればなるほど何らかの効果により赤外線の放射(と,もう一方の板による吸収)が増え,(横方向には)とんでもない効率で熱を放出(および吸収)出来る,という事になる.

この異常な熱伝導の高さが,残存気体による対流による熱伝導によるものだとか,薄膜間の横方向での直接の放射ではなく,広い面積の上下面からの放射がどこかで反射してもう一方の薄膜に当たっている可能性を否定する実験も行っている.
残存気体の量を1000倍程度(10-3 Torr)に増やしても,熱伝導はほとんど影響を受けなかった.残存気体による対流であれば気圧の増加で熱伝導は大きな影響を受けるはずであるが,そのような結果が出なかったということは,対流の影響は否定できる.また,二枚の薄膜間にだけアルミホイルを設置して直接の放射の影響をカットすると,熱の移動はほとんど観測されなくなった.このことから,薄膜の上下面からの放射がどこかで反射してきている可能性も除外できる.つまり,何らかの効果により薄膜間の横方向での放射による熱伝導が100倍以上ブーストされているわけだ.

この原因を調べるために,著者らは電場の揺らぎ等による分極などを計算している.SiNを既知の誘電率をもつ誘電体とし,サンプル形状を細かなメッシュに分割,そこでどのような電場振動が可能かを計算している.すると,厚み方向が非常に薄い=そちら方向での振動モードが非常に制限される事に由来し,特定の波数のみに大きな分散が生じることがわかった.まあ何というか,長さの決まった管で特定の音が共鳴するのと似たようなものだ.
厚みが十分薄いと,可能な振動モードの種類は非常に限られるため,ほぼ単一モードでの共鳴のようなことが起こる.このため,ある特定の振動数をもつ光(とカップル出来る電荷密度の振動)の状態密度が非常に高くなり,その振動数の光の放出・吸収効率が劇的に上昇する.計算によれば,厚みが270 nmのときに共鳴するモードは0.10 eV=12 μm程度の波長の光に対応する.このあたりの波長域はほぼ室温に相当する物質が放つ赤外線のピーク波長に近い.
どういうことかというと,
・薄膜になると,特定の振動数の光を(薄膜の面内方向に)放出・吸収しやすくなる.
・SiNの場合,この特定の振動数の光は,室温付近での赤外線の波長に近い
・このためSiNの薄膜は,熱放射とその吸収の効率が極端に高くなる
という感じだ.
室温付近に限っていえば,薄膜の厚みによる放射伝導の効率を,著者らのシミュレーションによる計算は定量的に再現することに成功している.厚みの変化で値が2桁以上変わるような量に対し,30%以内程度の誤差で一致しているので,これは見事な結果である.
※ただし,低温域では(特に膜厚の薄いものに関し)ズレが大きくなる傾向にある.低温になると赤外線のピーク波長が長波長側にズレるので計算上は270 nm厚の薄膜の効率は大きく低下するはずなのだが,それが見えていないなど今後に課題も残る.

著者らはさらに,放射の角度依存性も計算により調べている.前述の通り,薄膜化することで薄膜と並行な方向への放射(要するに,薄膜の薄いエッジから横方向に飛んでいく放射)は共鳴的に増えるのだが,逆に面に垂直な方向への放射は減ってしまう.このため,ちょうど赤外線と共鳴しやすいような膜厚270 nmの場合,横方向への放射(や,横から来る放射に対する吸収)が約10倍になるのに対し,面に垂直な方向への放射(と,そちらからの光の吸収)は1/10程度に減少している.この効果は,二枚の薄膜を互いに少し傾けてやる(−− → /\)と,薄膜間での放射による熱伝導が減少するという実験からも支持されている.

著者らは「ナノ・マイクロサイズでの放熱や吸熱の積極的な制御に繋がる」とかも書いているのだが,そういった方面で使うのはなかなか難しい気もする.(2018.9.14)

 

201. サハラ砂漠における大規模な風力発電や太陽光発電は,降雨量や草木の増加をもたらす(※ただし(略)

"Climate model shows large-scale wind and solar farms in the Sahara increase rain and vegetation"
Y. Li et al., Science, 361, 1019-1022 (2018).

再生可能エネルギーによる発電コストは年々下がっており,(その変動を補う手段は必要ではあるが)経済的にも資源的にも「割に合う」方式となってきている.なかでも風力発電と太陽光発電は多くの地域で導入が進んでいる発電手段ではあるのだが,その実力を十分に発揮するためには安定した気候と広い空間が必要である.
そのような土地として注目されている場所の一つが,サハラ砂漠だ.広大な土地,安定した日照,比較的小規模な生態系(ゼロではないが).このため,サハラ砂漠に広大な太陽光発電施設やら風力発電所を建設しようという運動はかなりの数存在している(そしてコストの見積もりが甘くてうまくいっていないものが多い).
しかし,野放図に太陽光発電や風力発電を導入すると,それ自体が環境に大きな影響を与える可能性もあるのではないだろうか?
今回の研究は,現時点での気候モデルを用いてそのあたりを突き詰めるものである.

……でまあ,のっけからネタバレ的な感じで何だが,この論文で扱われている条件ははっきり言って実現性は(少なくとも今後おそらく1世紀以上は)皆無というレベルのものとなる.
何せ,計算に使われている発電所の規模がとんでもないのだ.
例えば太陽光発電.サハラ砂漠の面積(約9.2×106 km2,これは日本の陸地面積の25倍程度になる)のうち太陽光パネルの設置に適していると考えられる20%の面積にパネルを敷き詰める,として計算されている.つまり日本の陸地面積の5倍弱の超巨大太陽光発電施設であり,なんというか,どうやるんだというレベルの面積になる.実現は自己増殖的な未来技術にでも期待しよう.なお,これだけの面積に変換効率15%(意外に控えめな数字だ)のパネルを設置すると,年間通しての平均(夜間等も含め平均化した量)で79 TWの出力が見込める.これは今の世界の電力消費の34倍以上であるが,まあ,何というか,そりゃそれだけ広い面積に敷き詰めればそうなるだろうよ,というか.
一方の風力発電の場合,安定してエネルギーが取り出せる量が1 W/m2程度,敷き詰められる領域がサハラ砂漠の面積の0.35程度と考え,出力が3.2 TW程度(世界の電力消費の1.5倍ぐらい)が見込めるそうだ.ちなみにこれ,1 MWぐらいの大きい風車だったとしても,320万基ぐらい設置する必要がある.これまた未来技術にでも(略)
※個人的には,こういう非現実的なレベルでの影響の計算は結構好きである.物理なんかの浮き世離れしたイントロ(数十億年後生き残るためには,とか)とかも好物だ.ただまあ,そういったものをこのクラスの論文誌に載せるべきなのか?に関しては議論もあろう.

まあ細かいことは置いておこう.
実はこういった大規模な建設による気候への影響というのはこれまでにもいろいろと計算があるのだが,著者らはそれらは不十分であると指摘する.というのも,それら建造物により気候が変われば植物の生え具合が変わり,それによりアルベド(太陽光の反射具合)や表面の凹凸具合(風などに影響を与える),植物による蒸散の増加(大気中の水分量を増加させる)はずなのに,既存の計算はそれを考慮していないからだ.
そこで今回著者らは,気候が変わる→植生が変わる→気候が変わる,というフィードバックを取り入れた計算を行った.

では,得られた結果を見ていこう.
まず計算結果として特徴的だったのは,気候の変化が比較的「局所的」であったことだ.といっても,サハラ砂漠全域に設置しているので,ここで言う「局所的」というのは「サハラ砂漠の近傍以外にはあまり影響を与えない」というレベルになる(欧州や他の大陸にはさほど影響がない,という程度).ただし,よく見ると全く影響がないわけでもなく,風力発電所を建設した場合にはブラジルのそこそこの地域で1 ℃以下程度の気温の上昇が見られたり,インド中西部あたりで降水量がやや減少する可能性が見えてはいる.
ではその「局所的」な影響はどんなものかと見てみると,風力発電所が建設されるとサハラ砂漠中心部付近での気温が2 ℃ちょっとほど上がることが示された.同時にサハラ中心部付近での降水量が平均して0.25 mm/day程度増加し,降水量が倍程度に増える傾向が見られた.特に顕著なのがサハラ南端のサバンナとの境目の部分(いわゆるサヘル地帯)で,このあたりでは1.1 mm/dayとそこそこ降水量が増えている.この原因としては,風力発電所の存在により大気に対する摩擦が増え気流が弱まり,その結果砂漠に熱がこもる&熱的低気圧がより発達しやすくなることに由来すると考えられる.降水量の増加は植物の増加を生み,それがさらにアルベドの低下と熱吸収を生む正のフィードバックが働き,これだけの変化を生むわけだ.
太陽光発電の場合は,光を吸収することにより似たようなフィードバックが発生する.このためやはり砂漠の温度が上昇し,砂漠と特にサヘルでの降水量が増加する.ただその程度としては風力発電の場合の半分程度の影響にとどまっている.
太陽光発電と風力発電を両方導入すると,効果は可算的になる.砂漠中心部での気温の上昇は2.65 ℃に達し,降水量の増加は砂漠中心部で0.35 mm/day程度,サヘルでは最大で年間500 mm程度にも達し,非常に豊かな生態系が成立する可能性がある.
なお,太陽光発電の場合の影響に関しては,パネルの変換効率に対する依存性が大きい.変換効率が高ければ,熱となるエネルギーが少ないため,パネルの設置による影響は小さくなる.変換効率が30%を超えたあたりで影響がほぼ無視できるようになり,さらに効率が高いと逆に気温を下げる&降水量を減らす方向の影響となる.

というわけで,「サハラ砂漠の有意な割合を覆い尽くすほどの風力発電所(や太陽光発電所)が建設されると,砂漠は暑くなるがサヘルのあたりは雨がバンバン降って豊かな土地になる」という計算であった.
……いや,まあ,何というか,「そうですか……」とか「お,おう……」としか言えない研究だが,それはそれとして面白くはある.(2018.9.7)