[M(9S3)2](TCNQ)n

 

身の回りにある磁性体としては金属や金属酸化物などがあるわけですが,スピンをもった (=不対電子を持った)分子を集めたものも磁石や磁性体となる可能性を秘めており, そのような分子ベースの磁性体を分子性磁性体(molecule based magnet)と呼びます.

時として分子磁性体(molecular magnet)と呼ぶこともあるのですが,分子一個で磁石の ような性質を示す単分子磁性体(single molecule magnet)と混同しやすいので,分子性 磁性体と呼んだ方が良いのではと個人的には思います.

分子性磁性体は構成要素が分子であることから,化学修飾により相互作用の強さやスピン の性質などを変化させることができ,磁性を研究する上で面白い系だとされています.

謳い文句としてこのようによく言われていますが,実際にはちょっと分子を修飾しただけで まったく異なる結晶構造になってしまったり,予期しない部分まで配列が変わってしまっ たりと,実際にはなかなかそううまくは行かないのが難しいところですが.ただ,成功して いる系ももちろんあり,そういう系では系統的な面白い研究がなされています.

一方,分子性磁性体の弱点としてはその相互作用の弱さが挙げられます. 金属や金属酸化物などではスピン密度が高い(スピン間の平均距離が短い)ために,スピン 同士の相互作用は(例えば室温でも転移するぐらい)大きなものとなります. これに対し分子性磁性体では,分子そのもののサイズが大きく(=磁性スピン間の距離が 長く),また各分子の持っているスピンの大きさ(不対電子の数)自体も少ないために. 分子間での相互作用は非常に弱いものとなってしまいます.このため,多くの分子性磁性体 ではスピン間の相互作用が有効に効いてくる温度が10Kだの液体He温度以下だのといった 極低温の世界となってしまっています. 大抵の場合において相互作用は大きい方が良い(面白い現象が見えやすくなる,実用に一歩 近づく)わけですから,これはちょっと困りものです.
そこで,相互作用を大きくする試みの一つとして,ヘテロ原子を導入した磁性カチオン である[M(9S3)2]2+(9S3 = 1,4,7-trithiacyclononane)に目を 付けました.

9S3は9員環に3つの硫黄原子を含んだ環状化合物であり,クラウンエーテルの酸素原子を 硫黄で置換したものとみなせクラウンチオエーテルとも呼ばれます. 通常のクラウンエーテルがアルカリ金属などに強く配位するのに対し,こちらは各種遷移 金属イオンと配位結合し,強固な錯体を形成します. 配位に用いられる硫黄原子は,炭素などに比べ軌道の広がりが大きく,隣接分子との間での 相互作用をより強くする傾向があります.(これは硫黄に限らずSeやTeなどでもその傾向が ありますが) そのため,この[M(9S3)2]2+を使って他の磁性アニオンと組み合わ せれば,強い相互作用が出てくるのではないか,と期待したわけです.

そこで早速手持ちのアニオンであるLiTCNQ(TCNQ = 7,7,8,8-tetracyanoquinodimethane)と 共に容器に入れ,アセトニトリルを溶媒とした拡散法(M字型のガラス管の左の下にLiTCNQ, 右の下に[M(9S3)2]BF4を入れ,溶媒を静かに注ぎ放置すると,中央 付近で両者が混合,飽和濃度を超えたところで結晶が析出する)での結晶作成を試みました. その結果,室温で拡散法を行うと[M(9S3)2](TCNQ)2という赤色結晶が, 40-50oCで行うと[M(9S3)2](TCNQ)3という黒色板状晶が 得られました.[1] 両者の結晶構造を下図に示します.

1:2塩(左)の方は[M(9S3)2]2+の作る箱の中にTCNQ- 2分子が 閉じ込められた構造になっており,TCNQ-のスピンはdimer化によってsingletに 落ち込み観測されません.これに対し[M(9S3)2]2+カチオンは, 画面で左右の方向に硫黄-硫黄の3.84 Åの,ファンデルワールス半径の和3.7 Åより 若干長い接触があります.この構造から予想されるとおり,1:2塩の磁化率は

と,1次元の反強磁性としてよくあらわされます.またこのフィッティングから計算される 相互作用の強さJはおよそ-6.3 K程度と,ファンデルワールス半径より遠い原子間距離にしては かなり強い値となっています.ただ,当初の目的から考えると,(相対的に強いとはいえ) 原子間距離が長いために全体としてはあまり強くない相互作用となってしまいました.

続いて1:3塩ですが,こちらはTCNQの形式電荷がTCNQ-2/3と部分酸化であり, この点だけからは伝導性が期待できます.しかしながら構造を見ればわかる通り, TCNQが3つ重なってtrimerを作り,trimer間ではあまり重なりが良くないという構造をしている ため,残念ながら半導体です.このtrimer間のずれは,おそらく [M(9S3)2]2+が大きすぎるということ(TCNQをきれいにスタックしようと すると,[M(9S3)2]2+を納めるスペースが作れない)に由来するものと 思われます. また磁性の方も,trimerということで[M(9S3)2]2+の積層をかなり 阻害しており,こちらも常磁性となってしまいました.

今後可能性があるとすれば,もっと大きなアクセプタを使うことで [M(9S3)2]2+のような大きなカチオンに負けないスタッキングを実現して 磁性導体を作る,というような方向かもしれません.

[1] J. Nishijo et al., Bull. Chem. Soc. Jpn., 77 (2004) 715-727